母のない子と子のない母と
2011・9・18
やっとブログを更新が可能になるだけの余裕ができた。今日はフリマに出る予定が、雨でジャンジャンである。久々児童文学なる物を読んだがいい物である。
昔、叔母にの獅子文禄の「悅ちゃん」を買ってもらいいたく感動したが、出版社は偕成社で児童文学全集の中に、「母のない子と子のない母と」があり、題名が気になっていた。今回どんなもんじゃと思い、40数年ぶりに児童文学なる物を読んでみた。
一郎と言う少年が父親の故郷小豆島に、母と弟と疎開、母が死に親戚のおとらおばさんと暮らす、小豆島を舞台に戦後すぐの子供たちの生活(子供たちも、父親、兄弟を戦争で失っている)、子供たちを見る大人、親の様子が描かれている。
おとらおばさん(一郎の父方の親類)はほとんど聖母であり、これだけ子供を理解できれば苦労せん、一郎も最初は都会っ子で島の子供たちともなかなか打ちとけない、しかしうちとけるうちに島の子になる、おばさんを思い、弟を思う(ここら辺で嘘つけとか、理想的過ぎるとか思う、おちゃんのひねくれ根性が出る)、また喜十郎という兵庫から来た少年が同じ都会っ子の一郎と打ち解け、しかし島の子は都会っ子たちに対して、羨望、憧れをもつと言う設定も分かる。最所打ち溶けあうのが都会っ子同士、島の暮らしに慣れないうちは以前住んだところと比べる、それを島の子が慣れさせようとかする、一郎を思ってるのに、しかしなびかない一郎に不満を持ったり。
またアンズ村の子供たちがミカン畑を通って、ミカンをいただく時「ミカン一ついただきます」と言うシーンは良い。ミカン畑のおじいさんはくれると言った、しかしいない時は?黙って持っていけば泥棒になる、「ミカン一ついただきます」といい考え。
おとらおばさんは戦争で息子を失い、一郎は疎開先でお母さんをなくす、親類の子を育てるから、疑似親子の関係になるが、デやっぱり親子でない。一郎はおとらおばさんに気を使う、しかしおとらおばさんはあくまでオープン、一郎に死んだ息子の面影を見る、息子より苦労する一郎を不憫に思うが、ここが本当の親子でではないある種一定の距離感も感じる。押しつけがましくない。世話をしてやってると言う感じはなく、どこまでも一郎主体の接し方である。良き理解者である。
最後のところで父親と再会する(戦争で生死不明の)、父親はおとらおばさんと結婚すると言う、一郎はおとらおばさんは好きだけど、やっぱりお母さんはどこまで行っても死んだお母さん、母親同様になりえても、生んだ母にはかなわない。ここらあたりの一郎の葛藤を想像するのは辛い。父親がおとらおばさんと再婚するのは、一郎自身とっても良い事は十分知ってるのに、お母さんがかわいそうだと言う思い。泣かせる。
おとらおばさんはこどもの気持ちが良く分かる人である。これは作者坪井栄自身がそうなのであろう。「たまのお祭りくらい、むだ使いする方が良いのよ、大きくなってからさびしいからね、そのためにお祭りがあるようなものさ」、「お父さんに何でもかんでも話してあげるのよ、うんとしゃべってきなさい」、大人に変に気を使う子供になりなさんなと言う事である。子どもは子どもの時代を十分楽しめばいいであろう。
ここで解説が必要な部分もある、一郎のお父さんはソ連で捕虜になり、日本に戻ってきても中々職が見つからない、「お父さんが捕虜になった場所にある」と話す。今の人はこのの理由はよく分からないと思う。ソ連つまりシベリアで捕虜になった人は、ソ連のスパイなのかもしれないという疑惑をもたれた時代でもあるから。レッドパージである。反共主義の時代でもあった。特にこの時代日本はアメリカに占領されていたから、アメリカはマッカーシズムの時代である。ここいらをちゃんと説明しないと、今の時代ではなんですか?である。
最後の最後の所で父親の言う言葉、「こんなでたらめの中から、出なおしてゆくより道はないんだ。そんな人が日本中にいっぱいいる。わかるかい一郎。元気だしてやろうな。こんなぼろやでも住むところはあるし、おとらおばさんもいるし、当分ここで暮らそうじゃないか。うしろをむいちゃいかん、まえを見て暮らすんだ」、今の時代に必要、震災後の今に必要な事である。しかしある意味難しい。まーちょいと前なら素直に「うん」だろうが、現代人はある意味清く正しくないから、素直に「うん」とはいかないだろう。
生活が苦しくとも、心は清く、今の時代は無理。今は生活は苦しく、心貧しく。今は生活が豊かで、心も豊か。格差社会だから。しかし昔から格差はあった、あって当たり前、なぜ清く生きられなくなったんだろう。物欲の権化となったからかもしれない。まだあるだろうが。
ここまで来て思い出したのは「魂の流木」のマイケル・オヤマである。マイケル・オヤマ、一郎の共通項は親が教育熱心(よい意味での)、教養があり、子どもに対する深い理解である。子どもを親の付属物と見ず、一人の人格を持った人と接していることである。
親は子供と共に育つである、しかし多くは親になった時点で、親になってしまう、子どもは親に従属物、親の言う事を聴いて当たり前。しかしついついやってしまう、おちゃんもボヘミアンに。なぜ?心配だから、しかし本当は不安だから。

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