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書籍・雑誌

欧米社会の集団妄想とカルト症候群

2016・11・23

 とにかく分厚い本、いつも新聞の広告を読んで買う。ここ数年本屋へは行ってない、注文は電話、まー当たりはずれなし、まー本選びは自信がある。

然し見た途端、読めるかな?しかし読みました。去年の暮れからかかって年を越した。

 読後感は歴史は繰り返す、社会が混乱し、集団、個人の行動の指針となるべきものがなくなった時、崩れた時社会は混乱する。宗教戦争、革命、人類が繰り返した多くの戦争、紛争

今まさに世界史的規模の大転換期にある時、それをどのように乗り切るか、どの様に処すべきかの指針を与えてくれる。世界史の出来事を見るに付け、あほだからこーなった、過去のことだといろいろ理由付けするが、そーだろか?社会が混乱すれば傍観者では済まされない、いつの間にかその中にいる。自分は巻き込まれないと脳天気になっておれない、何故なら

われわれの心、頭の中に狂気を生む種、残酷、狂信者になって行動してしまうものがある。それを歴史の事件から精神・心理の立場から考察した本。

 社会が混乱すると混乱を鎮めようとカリスマが登場、カリスマがカリスマであるうちはいいがメッキが剥がれるとボコボコ。カリスマがカリスマでいるうちは盲信し、狂気に走る。カリスマは自分の地位を利用してしたい放題(裸の王様)、なんでも出来るという万能感、誇大妄想。大衆がなんか変と気づく、カリスマボコボコ、また社会騒乱、やっと安定

社会に不満。不平、不安が広がると原因を探したくなる。スケープゴード、人柱。すべての災いはこいつだと言わんばかりに虐殺、リンチ、差別、排除。そして社会的、歴史的な固定された差別になる。

 小は学校でのいじめ、大はヒトラー、宗教戦争、KKK、十字軍、イスラム国。人の心にある、不平、不満、不安である。そこにカリスマ的に煽るものがあれば、煽られてしまう。不安、不平、不満と言う実体のない、漠としたもの、特に不安は実体はないから特に恐怖感が強い。人とは哀れなもので何としても不安の実体がほしい、それがスケープゴードであり人柱である。不安の実体化?

 またこの本を読んでるわきで、エマヌエル・トッドの本を読んだが、今のフランスで極右を支持してる地域は、ヒトラーがフランスを占領した時、特に支持が強い地域である、愕然とした。19世紀の後半マリア信仰が起こった地域と重なる。山間地帯である。山間地帯?津山三十人殺し?特有の排他心理、特有の濃すぎる人間関係、外部情報との隔絶、近親憎悪、デマが起こりやすい特徴がある。簡単に言えば、伝説、風評、実態がない漠としたもの。

 だからどーした?早く本論を言えだろう。つまり歴史的大事件を関係ないではすまされぬ、何故なら我々誰もが歴史的大転換の時、社会の混乱状態に置いてはおない事をしてしまう、心理、心がある。それを知ってほしい。プラス生まれた土地の文化、風習、歴史などが絡み合って一個の人を作っている。

人間は人間が思うほど賢くない、思うよりあほである、歴史に学んでほしい、それだけ。

温故知新、歴委は繰り返す、災害は忘れたころにやってくる

もう親を捨てるしかない

2016・11・13

 「親を捨てるしかない」と読んではいけないと考える。「もう、親を。捨てるしかない」と読む方が著者の苦悩と言うか、今この国の閉塞感、現代の虚しさ、空虚感、見せかけの親切、つなぎたくもない絆、感動の強制、すべて本質を付いていない世の中、本質をつきたくない、怖いのだ。見たくない。が、しかし、それでいいのか?ちょっと考えてと言う思いが伝わって来た。

 突いたらすべての素が出て、収拾が付かなくなる。縮む社会、福祉、経済、世間、家族。その縮んだ空間を誰が埋めるのか?そんな空間埋める余裕がないヨ、誰かやるだろ?その誰もいないんだよ

困りごとが多い、増える。しかし対策は?財源は?必死こいて生きてるんだよ、人のこと考えてられないヨ。なんて世の中で自分の家族だけで必死なのに、親の面倒は見るのは当たり前、当然と言う風潮、やるのは分かってる。

やりますよ、伝統的家族型福祉、日本型社会福祉、国は在宅型介護(家族介護)を推進。その果てが介護殺人、介護離職、介護離婚。飛んでも美学が家族を追いつめる、それも昔からある中味のないただの無責任な世間の声。

世の中は変化してる(当たり前、変化のない社会はありえない)、それを延々と古い家族型をやっている、その先に待っているのが家族共倒れ、悲劇的な事件、事故。それに著者は待ったをかけた、今のやり方をやっていれば、悲劇、不幸になる。考え方を切り替えなさい、つまり一人、一人、自分で出来る事を線引き、安易に子を頼らない、子も出来る事だけする

 まず始めが世帯分離(精神的親棄て)、心理学でいう精神的親殺し、精神的子殺し、これが成功すると親と子の関係が上下の関係ではなく、対等な個人として親子関係が機能し円滑に家族関係が進む。親の家庭、子供の家庭と独立した考え、子供が親が困ったからといって安易に手を出さない、自分が困ってればそっちが先、余裕があれば別だけど。親家族、子の家族がくっついて、「ただいま大変ですよ家庭、家族」は使える制度を使って何とか乗り切ってほしい。しかし悲劇的な事件、事故を防ぐには、独立した親家庭、子供の過程をやっていく、考え気概。

情緒的昔方の家庭観にオサラバ、バイバイ

ブログ開始

2016・10・26(火)

モー3年以上、ブログ更新してない、その間の変化ボヘミァンが専門学校入学、母親が死んだ、まー家族の変化、人生の変化、ブログ更新してないなーと気にしつつ、とうとう更新しなくなった、そして今日からまた再開

 今日の本は佐藤愛子著「90歳何がめでたい」、歳を取ることがどれだけ大変か、つくづくしみじみ分かってきた、ページを繰るたびにアーそーだよな、ウンウンの連続。60歳の前半でこーだあと10年したらもっとだよなと思いながら。

 無理して文明の利器にすがる必要はない、自分に必要なものでいい、身体が動かない、それがどーした、年を取れば当たり前、アンチエイジンぐ?あほか、それだけでストレスだ。

若返る?細胞レベルで老化してる、細胞が若返るかと毒づく自分がいる、アー年取った、とうとう頭も老化現象か?佐藤愛子現象か?

 好奇心の固まりだ、愛子女史はそして92歳だ、私はまだ61歳、まだ踏ん張れる、まだまだだ、しかし老化はしている。

知り合いに勧めたら「ア( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、面白い」、バカと思った、老化していく風景読み取れんのか >

最後のクレイジー犬塚弘

2013・7・21

 今日は準決勝、聖愛と山田、さてどちらが勝つか?でもまさか、聖愛が光星に勝つとは、また南が負けたとはいえ山田と対戦して6点も入れた、強くなったと思う。「南は特徴がないのが特徴中ですね」と言われたりする。可もなく不可もなく。校風?なんだっけ?でも卒業生が言う、周りが言うのは、ボヤーっとして、欲もない、競争心がない。マイペース型が多い。

弘高も14年ぶりの準決勝、もし甲子園に行くとすれば昭和46年の春の大会以来かな?しかし 弘高の野球部はある意味モンスター、練習場は遠い、いつも見るが土淵川を歩いてるかは知ってる。チャリンコは見ない。中央も遠いがグーグーとチャリンコデ練習場まで走っていく。また進学校であるから、そこそこの成績もとらないといけないし、私立と違って成績で手とり足とりはない。校風が自主独立、自分の事は自分でやれ。

その点聖愛は優しい、さすが元は女子高であるし、キリスト教である。練習場も近い。歩いてすぐ。聖愛も弘高も歴史は130年前後の伝統校である。聖愛はもともと旧制の女学校で、戦後中等部を置いた。大体中等部から入学するのは、お嬢様である。で、一時中等部がなくなったが、中高一貫教育でまた復活。

 また枕が長くなったが、おちゃんにすれば「シャボン玉ホリディー」の時の疑問が解けた感じがするし、芸歴の長い人ばかりだが、当時はプロフィールが外に出ることもなければご本人も話すなんて事がなかった。今みたいに芸能人が自分で自分の事は話す事はなかったし、そんな番組もなかった気がする。まして映画、テレビの裏話は皆無ではなかったか。出たとしても数年後、つまり年単位の時間である、今のようにすぐネタバレはなかった。

 放送は昭和36年だと思う(おちゃん幼稚園、年長)、すぐハマった。ダンス、歌、コント。なぜか子供でも面白かった、。後にジャニーズの原型となるスリーファンキーズが出ていた。歌って、踊れる男の子のグループで、アンチャン風。それまではダーク・ダックス、ボニ―・ジャックス、デューク・エイせスなど、オッサン系しかなかった。

いまだにこの番組から出た歌のナンバーは歌い継がれてるし、この番組で育った人たちは現役第1線である。当時はコメディアン、喜劇役者と思っていたが、今この本を読んでるとすごい経歴、また基礎をきっちり学んでいる、またもともとが音楽家志望であり、後付けで喜劇、コメディー、本格的演技が付き、ピンでも音楽家、役者でイケる人ばかり。

今ではすごいなーという芸能人もこのころは若手であり、不思議な縁で互いが成長し、触発し、一流の芸能人になっていく過程が分かる。芸能人の人生ドラマとしても読める。ト社は家で息子の役でコントもよく演じたと言うが(学生服、学生帽の姿の記憶がある)、また泥棒もよくやっていた(頬かぶり、唐草の風呂敷を背負った)

年末は毎年「赤穂浪士」をやっていた。大石内蔵助は誰が演じたか忘れたが、吉良上野介は玉川一郎が演じていた記憶がある。なんて自分の思い出ばかり書いてるが。たしか18世中村勘三朗が小学生で勘九朗の時、シャボン玉に出ていた記憶がある。背広を着て。後で何かの本で、植木等が大好きとあった。イスにちょこんと座っていたような記憶がある。

 昭和41,42年になるとNHKで夕方6時から「サンダーバード」が入るから(おまけに2話一緒に放送するから、シャボン玉をまたぐから困る)、急いでチャンネルを変えて見ていた。しかしこれは子供の事情である。おとなのこの時代の事情が書いてある。

親分肌で、個性の強いハナ肇、他のメンバーの間に挟まれて苦労した事、しかし遅れて来た男植木等の存在がなければ、続いていただろうかと思わせるところもある。植木は大人であると何度も書かれている。

とにかく凄いグループである。今まで語られるkとのなかったクレイジの歴史である。

死刑でいいです

2013・5・22

題名「死刑でいいです」、何とも命を軽く考えてると言うか、自分の命を。まるで、品物を選ぶときの、「これでいいよ」って感覚を覚えた。

 少年犯罪に関する本は出てるが、この本は犯罪者である、少年本人に焦点を合わせていない。少年個人の犯罪にも焦点を当てているが、現在少年犯罪が起こるたびに出てくる、広汎性発達障害、アスペルガー、人格障害という、障害を抱えた少年をどう処遇するか、原因とは何か、この障害を抱えた少年たちをどう支援するかが描かれている。

 また現在の少年問題の周辺にいる、弁護士、精神科医、心理療法士、元担任など、家庭裁判所調査官など、専門家の意見もある。少年刑務所、少年院の違い。今まで漠然としていたこの違いをはっきり教えてくれるい、処遇の違い、この違いが少年が社会に出た時のその後の社会生活にも影響することなど。

 発達障害が犯罪に結び付くわけではなく、環境の問題であり、環境を整備し、その特性を周りが分かれば、生きていけると言う。また発達障害という自分が分かるまで、生き辛い、なんで自分は不利になるのかと疑問を持っていた人、発達障害と分かると、楽になると、それが自分なら今のままでいい、あるがままでいいと受け入れる事の大事さ。しかし、あるがまま、自己受容はかなりきつい、苦しい作業である。そのプロセスを乗り越えての、あるがままの自分、これでイイという自分である。

 しかし事件が起こるたびに、発達障害、アスペルガーと言葉だけが独り歩き、この障害を持っているだけで偏見を持たれる。その偏見、誤解を解くためにも、いい本である。いかに我々が分かってないか、改めて感じた。

 環境が悪ければ、発達障害から人格障害へ移行。何より大事な事は、発達障害、人格障害という診断名より、その障害を抱えながらも生きていけるようにすることであり、仮に犯罪を起こしたとしても、再犯を起こさないように支援する事。どうしてもこの障害を持っていると、再犯率が高い。

 そして何より大事な事は、このような障害を持った人を障害に渡って支援することであり、早期発見である。そして思春期をどのようにして乗り越えるのかえある。

中村屋三代記

2013・5・12

 三代記と言うが、17世勘三郎、18世勘三郎、周りの人々の話である。一番良かったのは、やはり娘波乃久里子である、やはりどこの家庭でも、娘は手厳しい、息子は優しい。

天下の17世も娘には方なし、しかし息子は優しいと言う、自分で自分の事を「私はわがままよ」というのはすごい、謙虚だと思う。まー凡人はそこには気がつかないが。

何が一番と言えば写真である。「一本刀土俵入り」の駒形茂平の17世と18世のあまりの違いである。失礼ながらお二人の人生がそのまま出ている、というより出自の違いが出ている。

駒形茂平は母親は苦労して育てられる、母親に横綱を見せてやりたい、しかし後半で渡世人になるが。17世は苦労人である、その茂平は母親の苦労を見て、父親がなく少しひねくれたのが顔に出た茂平、また渡世人なるかもしれないと予感させる。18世はどこまでも大らかである、母親は苦労をしている、その母親に横綱になった姿を見せるという希望を感じさせる。

ココで、波乃久里子の言う「弟は生まれ時から将軍なのよ」がよく分かる。また最後の歌舞伎「俊寛」は俊寛その物ではないかと思わせる。やはり歌舞伎の役者は、写真にこだわると言う事がよく分かる、というよりそれを感じさせる、なるほどと思わせる。

しかしこの2カ月近く、勘九朗(やはり勘三郎というより勘九朗時代が長いせいか、18世を勘三郎はピンとこない)読んでわかった事は、歌舞伎は常に進化している事、ところがどう言う訳かいつの間にか形だけの継承と思わせるものになっている事が分かった。

確かに様式美は分かりやすいが、世話物が神髄だと言う事は、観客の共感を呼ぶからで、いつの時代も共感を呼ぶものでなければと言う事は分かる。だからニューヨークで世話物をかけた時は、今までの様式美だけではない神髄の世話物をかけた勇気はすごい。

確かに様式美は分かりやすいが、歌舞伎の神髄の世話物を分かってもらいたいとい気持ちが理解できる。勘九朗が「歌舞伎から、世話物をはずしたらスカスカだよ」って言うのは分かる。

17世の偏食はすごい、よく体がもったものである。天ぷらそばと言ったら、楽日まで天ぷらそば。天才、我儘、褒めないでも情があると言う。ある意味モンスター今でいえば。

荒ぶる

2013・5・5

 公園の回り、いや弘前中が大渋滞、車だといつもの倍の時間がかかる。しかし公園の桜の貧乏臭い事と、満開になっていないのに、満開の後雨が降って散ってくる桜だ。『貧乏臭いさくら』って言ったら、誰もが今年の桜は貧乏臭いと思ってるらしい。知り合いの84歳のバーさまが『84年生きてきて、こったら春初めてだ』なるほど。梅が咲く前に桜が咲き、いまだレンギョウは咲き続け、いつもならもう花筏。それがまだない、ってことは散ってないわけで、来週あたり、花筏。

18世勘三郎の本にハマって約1カ月、そろそろ終わりになる、ネーちゃんに

『今まで4冊読んだけどさ、一番面白いな』

「うん、詳しいし、一番だよ」

『でも、自分は長生きしないだろうって、でも、長生きしたいって、その通りになった』

「うん、でもさ、18世の本読んでさ、歌舞伎ってこんなに面白言って分かった、本物みたい」

全くこれからって時に、始まったばかりで、残念。でも歌舞伎は進化していくだろうな、福助あたりがものすごく大化けして(18世亡き後のリーダーとして)、面白くしていく感じがする。何の本か忘れたが17世の写真を見た時(一本刀土俵入り)、影がある様な気がした、孤独の影。「荒ぶる」を読んでいたら18世から見た17世、つまり息子から見た父に孤独の影を見たと書いてある。17世はお妾さんの子供として生まれ、孤独であった事が書いてある。あーそうかと思った。

だから18世が生まれた時は、御曹子の誕生だからうれしかっただろう、その分鬼になったろうと想像は難くない。稽古は厳しい、上手じゃない、でも18世も気が付いたら17世と同じ稽古の付け方をしてると。よく言うよなー、気が付いたら親と同じ事をしてるって。一つの華族の歴史、自分の生きざまみたいな本である。18世の本の中ではどれが良いと言えば、「荒らぶる」だろうな。

18世の駒形茂平の写真を見た時、どこまでも大らかである、純粋性を感じた。しかし17世の駒形茂平は、苦労したと言う感じが出ていた。しかし18世は話好きだなーとしみじみ思った。本当に残念である。天真爛漫のベビーギャングがそのまま大人になった感じ。

諸々の本

2013・4・6

 なぜ諸々というか、常に3冊以上を同時進行、ハマれば他をストップして読んでるから。特にたいした意味はない。最近はというよりここ1週間は、18世中村勘三郎を本を読んでる。とにかく面白い、落語見たである。内容は「勘九朗日記『か』の字」と重複するが、本によって内容が変化したりというより詳しくなったりで、それなりの面白さはある。

ほとんど、いや全部一人が足りだから落語の本を読んでるみたいだが、ご本人の語り口が落語見たいだから、目の前にいるみたいなもので、汗をかきながら、体全体で話してる感じが伝わる。しぐさ、光景がありありと浮かぶのである。

 何でと思うかもしれないが、全然関係ないけど、カウンセリングの逐語訳をしてるうちに身に付いた感覚からだと思う。

逐語訳とは、カウンセリングをした内容ほとんどそのまま文章におこす、15分くらいで数時間かかるが、「アー」、「ウ―」、「フンフン」と、とにかくなるべく可能な限り文章にして、もう一度その文章を読みなおす。自分で、自分の話した事を文章にして読みなおして、その時の感情、気持ちとか心の中の変化をもう一度再現する。

で、その後、この聴き方はよくない、アーここで言葉をくりかえらしてるから主題、つまりカウンセリングの中の核になる部分とか、フンフンが多くなってるから核心部分に入ってるとか、注視してるとか、グループでセッションするわけ。こんな事を繰り返してると不思議なもので、言葉の感覚、文章を読んでも文章から、息遣い、心理的なものが逐語訳を覚える前と違って、寄り鮮明に感じるわけ。

 ただ読むと言う感じではなく、体で感じて読むって感じ。だから18世の話してる姿がリアルに目に浮かぶわけ。まー楽屋に入って話を聞いてる感じかな。場所もいろいろ変えて話してるから、その場の雰囲気、飲んでる物、食べてる雰囲気も伝わるのよ。

『ネー、ネ―聞いて、聴いて』とか、「分かる?分かるでしょう、ネー分かるよね」と叩き揉む話し方、話したくて、話したくてたまらない感じとか、人柄というか、せっかちの話好きというか、人格全部が伝わるのよ。それもまた話とは別の魅力になってるんだけど。

何か18世を人占めしてる感じかな。

昔は一人語りとか、対談集なんて好きな方ではなかったけど、逐語訳を始めてからは違うね、話しての感覚とか、心理状態をおぼろげだけど感じるようになったので、面白い。

キーンさんの「私の本は売れません」とか言ってるのも、本当に売れないよねって呟いてしまった。本当に売れなくて、売れなくて、彼は困ってるって感じた。その後分かった、キーンさんは本当にお金の困った時期があって、奨学金とか、何とか基金とか、いろいろ利用したみたい。

話はもともと面白い人だから、内容も面白いけど、息遣いを感じて欲しいね。ビンビン感じるよ。歌舞伎は演出家がないから、アドリブあり、自分なりの演ずる役柄の心理を考えるとか。楽屋話もありで。役の解釈の違いが親子であるとか。

なんてアマゾンのリンクを貼ろうとしたらないの、どうしよう

まー本の題名だけ「勘九朗ひとりがたり」、「勘九朗とはずがたり」

諸々の本

2013・4・4

『非差別の食卓』以来、上原善弘氏の本にハマった感じ。文章は抑制が聞いており、バランスが取れている。また視点と言うか、氏の相手との距離感が、超えることもなく、離れることもないので、ほどよい距離感を感じる。読んでいて圧迫感がない。淡々と進行していく過程は良い。

☆聖路加病院訪問看護科

訪問看護とは何ぞや、訪問看護の看護師のドキュメントであると感じた。親も2年半、訪問看護のサービスを受けた。略して訪看。日本で一番歴史のある聖路加病院の訪問看護、しかし戦前から訪問看護があるのは知らなかった。介護保険以前からあるとはなんとなく知っていたが、戦前からあるのは驚いた。

 訪問看護はとても良いサービスであるとは実感するし、できれば要介護になりドクターから了解が出れば利用した方がいい。家族を精神的に支えてくれるようになり、ドクター任せでいるよりはずっと精神的に楽になる。何よりも相談ができるようになるので、心強い。特に体調の急変が起きた時は、すぐ救急車より訪看の指示の方がいい時がある。一見すごい状態に見えても、案外大した事がない時もあるので、またその逆もあるので、いつも訪問してる、看護士に一報を入れることが大事である。あわてて救急車を呼んでも、くたびれ損のくたびれ儲けなんて事もある。

 訪問看護を知るためには良い本であり、家族も訪看の気持ちを理解するために良い。家族の前で、介護サービスをする時は病棟とは違い相当緊張すると言う。改めてやはりと思った、いや感じた。おちゃんとしては介護サービスを、看護士、ヘルパーがしてる時は原則家族はいない方がいいと思う。口には出さないが、はっきり言うと邪魔なのである。家族の目があってやりにくいし、家族が変に口を出すと集中できない、緊張する。

 おちゃんは原則、訪問系の介護サービスの時は見ない、任せる。ヘルパーも家族の目があるとやりにくいし、こっちはやり難いよねって聞くから、ハイと答えてくれるので、立場を理解してくれてると感じるので、そうなればこっちのものである。意外とうまく付き合っていける。まー自分を理解する前に相手を理解するって事は、最初の段階でやっておけば後は楽。家族が出来ない事をしてくれるのだから、その分の心使いはした方がいい。

 在宅における介護サービスはお互いの信頼関係である。これをなくして良いサービスにはならない。ある意味お互いの人間性も問われる。しかしチェックは怠るべきではない、あればクレームを言えば良い。上司に。

 聖路加の訪問看護はトップレベルにあるにしても、訪問看護は激務であり、いくら忙しく、疲れていても、それを見せないようにし、病棟に勤務してる時より緊張を強いられてる事は全ての訪問看護に携わる看護師には共通するだろう。その看護師に対する作者のまなざしは優しく、温かい。だから同行も出来たのではと想像する。外部の人を家に入れる事を嫌い、訪問系のサービスを嫌う家族もある、まして全く関係のない人の同行はもっと難しい。それが可能にしたのは作者の人徳だろう。

 あくまでも訪看の立場で観察し、感じ、書いてあると感じたが、だからと言って訪看の方に偏ってるわけでもない。作者目線、感じも書いてあるが、だからと言って自分の意見がうるさいとは感じない。控えめである。相手の立場目線の文章、自分目線の文章の量のバランスが良い。しかし訪看の移動が自転車とは驚いた。結構荷物が多いのに。重いし。

またマネージャーの押川さんの人生も中々である。面白い。いつかは辞めるつもりが続いてる、他のスタッフもそうらしい。これはこれで良いのでは。在宅か施設か病院か、答えは出ない、出るものではない。作者も押川も、自分の家族の時は迷う、看取った後はこれで良かったのかと。

 訪問看護とは何ぞや、在宅介護、在宅での看取り、訪問看護を取り巻く状況。絶対読んでほしい。

☆異形の日本人

うーん、期待倒れです。これで大宅惣一賞ですかって感じ。『聖路加病院訪問看護科』の出来が良いせいか、ウーンて言う感じ。

 ターザン姉妹は学問的興味から始まり、途中でプライバシーとか、人権とかいろいろありで中途半端で幕引き。その事件を追ったもののやはりモヤモヤで終わってる。限界なのだと思う。しかし学問的興味で、ここまでやるかとその時代の人権の無さに驚く。

 後はその時話題になった事件のその後を追う形で書かれた物だが、真相をその当事者に聞くと言うものである。そこには生きていくと言う、型にハマらない生き方、世間はいろいろ言うがどうなんだと言う強さみたいなものを感じた。

それと坂田三吉をかきたいのか、桂春男児かきたいのかよく分からない。

諸々の本

2013・3・24

 諸々と言って更新することが多くなった、なぜ?本は確かに読んでるがだいたい3,4冊同時進行に読むので、まず更新が遅い、内容を忘れる、ならば1冊集中。無理、何冊か同時進行の癖がついたし、気分でころころ変わるので

☆ロストケア

 本の腰巻はマー買ってください的である、買った。ゥーーん、介護の内容お粗末、もっと突っ込んでほしかった、最初著者は介護の経験あるのかなと思った。あるらしいがそのあたりが感じられない。これが「母の遺産」では、著者が確実に介護の経験をしたと伝わるし、著者自身ももう介護はたくさんと。内容は要介護平均3・8の高齢者の連続大量殺人。高齢者身体ほとんど寝たきり、介護者精神的、肉体的、ボロボロ状態。大体要介護2を超えたあたりで在宅は無理になる。で、殺された家族は表向き悲しいが、裏は介護から解放されたのでほっとする。ここでその家族を鬼とか、人でなしというのは、言う方が現実を知らないだけ。現実はこんなものです。大体介護を数年もやると早く死んでくれが多い。ただ言わないだけ。

 ここではこの殺人によって介護から救われた家族がある、しかし殺人である、介護は追いつめられると死んでほしいという気持ちになる、しかし実際は思うだけが多い。現実介護殺人もあるわけで、この殺人犯が果して悪魔なのか、それとも介護地獄から解放してくれる、救世主なのか。答えは保留のまま終わる。裁判では犯人は死刑になるが。最後の方で(後半部分はかなり読ませる、考えさせる内容である)、人は原罪があり、人はみな迷惑をかけて生きていると。ウ―ーーン、唸ってしまった。つまり人はこの自覚を持っていなけらば生きていく事は出来ないし、いつまでもきれい事で処理しようとか、正義とか悪とかくだらなことで悩むのである。そして肝心な事がおろそかになる。正義と悪,善と悪、この二極論は馬鹿の考えることで、世の中二極論では片付かないし、迷惑をかけて生きていく事は出来ない。誰も自分は迷惑をかけているという意識はない。しかし迷惑をかけて生きている、だからと言って迷惑を推奨してるわけではない、ここら辺をきちんと理解して欲しい。

 ダライ・ラマの言う通り、人は一人で生きていく事は出来ないし、諸々に支えられ、関わり合って生きている、依存している。一人自立して生きてるわけではない。だから高齢になりお世話をしてもらう事は恥ずべきことでもないし、日々衰えていく限り仕方がないと思う。

世話をしてくれる人があってもなくても人はいずれ誰かの世話になる、しかし今までの日本は家族にもたれかかりすぎた、それが介護地獄を作る原因でもある。「日本の家族介護は呪いだ」とい言葉が出てくるがその通りである。本の中では介護保険の欠点を突くが、介護保険の事をどう言おうが、介護保険開始でどれだけ、救われたか。

介護保険ができて良かったという人は新しい介護の考え方にチェンジ出来た人、介護保険に対してグダグダと家族介護だという人はチェンジ出来てない。チェンジ出来ない所ほど介護地獄は起きやすい、余裕のある介護は出来ない。

『介護の世界って、ドロドロだよね』、「そうですね」、「はい」、「そう思います」、「良いとか悪いとか言うとね、全部飲めないと、区別つけてるとね」、そうなんです正論を振り回してると先に進めないわけ。でも正論も必要なんです。なぜと言えば、効率よく介護をすることもできるが、非人間的になる。それじゃ遺憾というわけで、介護で疲弊してる家族の為にもって分けで、介護保険がスタート。自己指示自己決定、利用者本位(現実は家族本位、介護者本位)という理念でスタート。確かに理念先行で、現実は後追い、でもね理念を持たないと理念がなければ、どうしても効率優先、モノ扱いになってしまうので、ブレーキとして、おまじないとして、利用者様優先とか何とかきれい事を言うのよ。このきれいと汚いをうまく使いわけが出来ないと、介護の世界はちと難しい。

☆非差別の食卓

この本よんだ衝撃は、「ロストケア」よりすごい。一言、簡単にソウルフードという言葉を使うなである。「ロストケア」を読んですごいとか、こんな桃かと思う人は安全地帯にいるから。安全地帯から外れた人は、現実はもっととか、こんなもんだと思うだろう。

 フライドチキンは、奴隷の料理、白人が残した肉のついた骨からが始まり。ホルモンは牛を解体した後の臓物。調理の特徴としては大変手間がかかること。しかしそれしか手に入れる事ができなければ、試行錯誤を繰り返して、食べる事が出来るようにする。

またカロリーが高い料理だと重労働の体には良い。著者は中学生の時日本酒を飲みながら、父親の仕事を手伝い体が温かくなった。それで気がついたのは外で働く労働者が酒を飲む事。寒風の中外で働く事はきつい、辛い。体が冷えていく、勢い酒を飲んで温かくする。今はいろいろ保温のグッズがあるが、昔はせいぜい懐炉だ、手っ取り早いのは酒。

また、昔に比べて、露骨な表面だった差別はなくなったが、見えない差別があること。それはその国、その地域の人しか感じない物。ブラジルは差別がないと表向き言われてるが、どっこい見えない差別がある。

ネパールの編では今現在の差別が書かれてる、マー他の国に比べたら目に見える差別の範疇にはいるなと感じた。カーストが日常の生活の中で残っている、しかし昔に比べたらいくらか、いくらかである、ましかなと。

著者は非差別の食事に拘っている、だから格別意識して差別的な事をかいていない気がする。ただどうしても差別という事は避けて通ることは出来なので、淡々としかし突っ込んで書いてある。これが差別に主眼を置かれると、うんざりする、なぜ?それは自分の中にある、差別という心が動かされるから。

食の文化史からいろいろ考えさせられた。良い本だと思う。今一度自分の心の中の差別するという心を問ううてみた。差別はなくならないだろうし(差別をなくすこと自体無理、無くなると思ってる奴はおめでたい)、多分差別する心というより感情とその逆の感情を自分の中でどうやって折り合いをつけるかであろう。それは無知ではいけない、なぜそこで差別の歴史があるのか、なぜ起こるのか、きちんとした根拠を自分で調べて、それでも差別観があるのであれば、どこかで折り合いをつける。感情に流されてはいけないと思う。

人は感情の動物である、見たまま、聞いたままである。また差別する側、される側では抜き差しならない感情の歴史がある。言葉ではない、感覚、感情の世界。それをそのまた外の人間がいいとか、悪いとか言えるだろうか。もし言うのであれば、きちんと自分の中で折り合いをつけることである。

いつも言う言葉で、みんな笑うが『文句と考えるは馬鹿でも出来るの、馬鹿と違うのは行動できるかできないか』。しゃべってるだけでは物ごと片付きません。

以前社会福祉士のとこへ相談に(精神障害者で問題が起きそうだと心配で相談に行った時)、話がこんがらがって、いきなり「あなたは差別する心あるんですか?」、『はっ?』(自分の差別する心を問われた気がしてそのお瞬間)、「ありますよ」。

社会福祉士もびっくりしたろう、自分から出た言葉と反応で。正義、正論で通すとこんなことになる。自分は良い事をしてると錯覚起こしてる。

春日武人曰く、良い事だと言われると後ないんだよね。その通り。そしてこの手のタイプは燃え尽きる。良い事してるのになんで、悪く言われなきゃいけないのって。1回燃え尽きて這いあがらないと、介護福祉の世界は続かない。精神的にタフでないと、理想主義ではだめなのよ。

Aさんにはいい事でも、Bさんには必ずしもいいとは限らないように。「その利用者に合ったニーズを提供しましょう」なんです。またそれてしまった。

より以前の記事一覧

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