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日記・コラム・つぶやき

自己責任

2016.10.29(土)

 何でもかんでも自己責任、そうだろうか?自己責任押し付けのの無責任であると思う。

自己支持自己決定があって本当の自己責任である、自己支持自己決定は生まれてすぐから、数か月から、死ぬ一瞬まである。

 赤ちゃんは母親またはそれに準ずる大人には抱っこされて、安心する、泣やむ。4か月あたりで人見知りをする、もう少し大きくなると好き、嫌いがはっきりする。親が大人が良い人何だけどと思っても、嫌は嫌である。

 認知症でも、どれだけ認知症が進んでも、嫌な人には介護されたくない、抵抗する、介護経験のある人、介護職にあった人は言う。選ぶ能力も最後まである。感覚、感情も鋭敏になる。十把一絡げもわかる、だからだましもごまかしも効かない。

認知症の人に喜び、楽しみを与えるだまし、ごまかしならいいが、忘れる、分からないということを逆手にとってのだまし、ごまかしはわかる。見破る。悪意を含んだ物だ。

自己指示(自分で選択)自己決定(自分で決める)この作業は日々行ってる、ただ意識しないだけだ、ほとんどが責任と言う物が伴わないだけで(意識がない)

物によっては責任が伴うものであれば、責任の所在を考えるだろう、だからどこまで自己の責任が取れるのか考える責任を取るとすればその範囲で、自己責任の範囲でそれが自己責任だ。

現代の何でもかんでもの自己責任は、ボヘミアンに言わせると『因果応報』、私に言わせると「自業自得」も入ってるから、入ってしまうから、使う言葉としてはご注意を

介護論

2012・9・4

 多分かなり役に立たない介護論だと自信はある。整骨院曰く「介護家族100あれば100色、1000あれば1000色、好きなようにさせろ、説得納得は無理」、介護職曰く「介護のコツは距離感を持つ、のめり込まない」、施設関係者曰く「ボケないこつは生涯現役」、介護職の友人曰く「満足な介護を望むな、100%完璧な介護はない」。

 如何にボケないでいることが難しいか、介護は難しいか、驚くだろう、理想論は存在しない、しかしボケは確実にやってくる。ボケはなりたくないではなく、老化による脳の機能障害なので、ある意味仕方がない。100%防げない以上、怖がってアンチエイジングをしてもやってくる、まーリスクを下げる程度で、来るものだと考えた方が楽である。

 ボケには前期(比較的楽な時期)、中期(混乱期)、後期(終末期)、最大の難所は混乱期である。被介護者が混乱してるので、介護者も混乱する、まーお互いが影響されて合わせ鏡の状態である。

 その時ありとあらゆる感情が起こる、憎しみ、焦り、戸惑い、絶望感、あきらめ、困難な状態を目にし悲観、ありとあらゆる負の感情が起こる。かわいさ余って、憎さ百倍の時期である。ここで相手を責めても自分も責めても解決はしない。この感情が起きても不思議ではない、起こっても当然である。ここで施設介護のスタッフ用のテキストを聞きかじったものが「それじゃだめ」なんていう馬鹿が現れたら無視。介護の経験がない、偽善者である。介護の最大の障害物。

なんて事を書いていたら(今日は11月11日なんと2ヶ月もあいてしまった)、とうとう介護も最終段階になってしまった。多分年内中に親は死ぬ。ガーン、10月3日入院、ドクターから

「膀胱がん、末期です、手の施しようがないです」(ガビーン)

『延命治療はしません、緩和治療で、本人が希望してたので』

「最初は麻薬、次がモルヒネ、最後は注射、場合によっては向精神薬、場合によっては抑制も有りです」

『わかりました』

『同意書書いていただきます』

カキカキ、意外と冷静な自分に驚きながら、少なくとも、スパゲティー症候群から救われる。最後まで自分の残された体力で、自由にベッド上だけでも、動いて過ごせる最後まで自立をしながらで良いのでは。点滴、酸素マスク、自由が奪われる、外したくなる、はずせば、抑制、ミトンをかけられる。大概は辛いからはずすのだ、自由に動きたいのだ。

何もしなければ自分の五体満足で動ける、何かして五体不満足になるので、それが苦しい、外したくなる。五体満足で生まれたら、五体満足で死ぬ方がいいのではと思う。自分の体力で最後まで生きるのだ。なんて考えながら。

『書きました、どうぞ』

「変更いつでも出来ますので」(淡々とした様子、ためらいがないので、驚いたのだろう)

この夏から親の体調は思わしくないので、今年か持って来年の春までと感じていた、尊厳死、延命治療、在宅看取り、いろいろ考え、友人にも聞いたりの最中、いきなり動かなくなりERで、腫瘍ありで、専門病院へ行って、こうなった。明日の事は分からないである。

以後今日までバタバタ、成年後見の取り下げ、金融機関、葬儀屋へ見積もり、病院と。人が死ぬときって、これほど手間を食うものだと思った。

しかし、これも親が、延命治療はするな、葬儀は質素にと聞いてあるから、忙しい割には楽である。おちゃんの周りでは大方が延命治療はしたくない、知人で遠からず仏になるとこも、延命治療はしてないという。やはり自分の死に際は親族、家族に話した方がいい。最後の死にゆくものが、残されたものに対するプレゼントと思う。

などの理由により更新できません、当分不定期です。

おおみそか

2011・12・31

 最後まで12月は更新なし。あまりにも忙しすぎた、本は買いすぎによる飛ばし読み、1冊として読了した本なし。情けなし。アルバイト、ボランティア、介護、進学相談などなど。

今年感じ、考えた事。

3・11後、当たり前のことが一番大事

これからは自分の感性を信じて、覚悟、本気、本当の意味の自己責任

振り回されない、つまり自己指示、自己決定、本当の意味での、人のせいにはしない。

中途半端な優しさはダメ、引き受けたら最後まで引き受ける覚悟。断る勇気。

同情は上から目線、親切、優しさは誰の為かよく考える、自己満足で終わらないために。

情が家族を混乱させると気がある、厳しくなる事が出来ないからである、しかし厳しさも必要

離婚して良くなるならすれば良い、よくならないなら辞める、誰が泣く?子供である

離婚、離職、一時の天国。後は無限地獄。それを覚悟ならしなさい。

どんな家庭でも、家庭であるうちはそれでいいと思え、壊れたらそれきりだ。

苦しみは見て見ぬふりをするな、しても良い、しかし痛みは続く。

苦しみ、現実を直視しろ、苦しみはいつまでも続かない、何らかの解決がある、必ず

子どもを信じよう、子供が帰るところは親のところ、親が子供を信じないでどうする。

返報の法則、必ず来る、いつか必ず、「私に構わないで」、「ええ、あなたには構いません」、「最後は誰も私に構ってくれない」、構わないで下さいって言ったの誰?

夫婦は五分と五分、どこまでも。意外と分かっていない。

介護に比べたら、育児なんてそー大変じゃない。成長していくんだもの。

思春期の子を持つ親の心配、不安は、子供にとっては「信用してない、信じてくれない」と思って間違いはない

子どもの「分かった」は、「ウゼーんだよ」だ。

 なんて、今年も結構いろいろあって、毎週日替わりメニューみたいにいろいろあって。

ありまして最後はこうなりまして、更新できずごめんなさい。

傾聴

2011・9・4

 昨日参画センター、鈴木絹英氏の高齢者の傾聴の講座へ行く。知り合いが何人かいた。傾聴はカウンセリングの基本、フンフン。カール・ロジャーズ、フンフン。エリック・バーン、フンフン。共感、受容、フンフン。指示は禁止(厳密ではない、ケースバイケース)、フンフン。

 五感使って聴く、中村喜久子だな、なるほど。誰でも解決能力がある、気づきである。と言う具合に今までカウンセリングの理論の福州、良かった、ここまで約2時間、中身が濃い、今までの学びを確認。

 午後ロールプレイ、聞き手(カウンセラー役)、話して(クライエント役、)、観察者(スーパーバイス)、介護職はやはり高齢者と話しているのでその癖が出る、いのちの電話、電話相談なので、言葉で確認しながら聴くので、言葉が多い。やはり現在の仕事の癖が出る。

 今回のロールプレイは面談形式なので、特定の人を対象に仕事、電話相談をしている人にはどうかなと感じた。介護の場合、やはり言葉がけは多くなるし、ノンバーバルコミュニケーションである、面談とはちと違う。い日の電話は声だけが頼り、どうしても言葉が頼り。面談と違う、戸惑っていた。

 しかし面談形式、電話カウンセリング、メールカウンセリングと種類がある以上、その特徴があるのだから、基本を押さえたうえで、自分の仕事の癖を残して、面談形式をしても良いと思った。

 介護職の場合はカウンセリングの技法を用いて相談支援、だから終始傾聴をしてたら、相手の情報の入手、指示は出来ない、聴くだけで終わってしまう。カウンセリングの技法を用いて、相談を受け、相手のニーズを探る。指示も有り。あって当然だと思う。

 ところが面談形式の場合、五感を使ってひたすら、相手に寄り添って聴く、指示はしない(なるべくしない。)答えはクライエントが自分の気づきの中から、導く。面談を経験すると指示することを頭の中にあると聴いていられない。せいぜい、うなづきと、言葉を返すことで精いっぱい。

 だったらお前はなんだ、おちゃんは終生クライエント、カウンセリングの理論を読み(読むだけ実践はしない、なぜ?説教してしまう自分があるから、感情移入が多いので、不可)。

 また症例ごとの分類、分析、事例の背後に見える物、原因とか、その方があってる。理屈をこねまわしてる方があってるみたい。

 しかしこれくらいの文章を書けるようになった自分に多少感動。外見、掃除のおばさん、鬼婆、障害者(何の障害に見えるか分からんが)、マー良くは見えない胡散臭く見えるんだろ。まーそう見てればいい、その人にはそう見えるんだから仕方ない。

帰りエビスによって、ネーちゃんに、「知り合いも何人かいてさ」、「フン世の中狭いからね」、「でサーやたら馬鹿丁寧な奴いてさ、苦手なんだよ」、「あんまり丁寧だと逆に馬鹿にされた感じ」。

 問題はこの事、丁寧に話してても内容結構きつい、相手を傷つけてる事がある(意外と気がつかない人多い、丁寧でソフトに覆ってるだけなのに)、乱暴、ため口、ざっくばらんで表現がきついようでも、内容が思いやり、優しいこともある。だから外見だけで判断してはいけない、両者の関係、立場、話の内容をよく見極めろ。それから、注意、文句を言え。

 大概は善意の心に燃え、私はさびしい、気の毒な人を救うと言う、上から目線の、善意の人がやる。相手は海千、山千、それも頭に入れないと。それが人の歩む人生、何もかもが問題もなく、きれいきれいの幸福な人生の人ないのだから。私の人生間違いがないと言えるか?もし言える人がいたら、すごい。しかしある意味、あんたおかしいよと言いたい、自分に問題がないと言うほど、問題なのである。

詩人になる

2011・6・2

 

 詩人になる。約30年ぶり、本当は詩人なのだ、一応「婦人公論」、月刊誌(鳩よ)の文芸欄に載った事がある。暇つぶしでチョコチョコ詩を書いていた。

 

 ★貴方は貴方のままでいい

貴方は貴方のままでいい、私は私のままでいい、

心に合わない心より、心に合った心が良い

貴方は貴方のままでいい、私は私のままでいい

自然のままの貴方がいい

 ★出来ないって何ですか?

出来ないって何ですか?

一生懸命、一生懸命、考えましたか?

本当に出来ないのですか?

出来ないって何ですか?

 

 ★当たり前の生活

どんな形?どんな物?

当たり前すぎて分からない?

空気みたい?

なくなってわかる?

遅過ぎると思うけど

 ★ 嫌いです

嫌いです

どこが?

嫌いだから、嫌い

どうして?

嫌いだから、嫌い

 ★あなたにとって

貴方にとっては善意でも

私にとっては善意じゃない

善意ってなんですか?

自己満足?貴方のはそう見える

そんな物いりません

必要のない善意は悪意です

 このような詩を書くから優しいか?優しくない、鬼婆。物分かりが良いか、悪い。普通の中年の女である。特の人生に対して深く考えてもいない。全く考えていないと言うわけでもない。ほどほどだ。思うがまま書いていると言う事が一番正しい。と思って書いている。

 誤解がないように言っておく。貴方はなたのままで良いとは、自分のわがまま、ヒステリー、嫉妬、どうしようもない部分を他人様に理解させることではない。

 自分のどうしようもない部分を、自分で知ることである。自分で自分を知る、他人を知るより難しく、困難な作業である。どうしようもない自分を知ると何かが変わる、変わるはず。

 チャン、ボヘミアンにいわせると、嘘つき、ペテン師、詐欺師、人をだましてる、言ってることとやってる事が違うと言うだろう。身内なんてそんな物。

国語辞書

2011・5・31

 今月も長かった。知事選なのでチラシをまく日が多かった。家裁へも行った。法律相談で4回相談、自我ん合計8時間。法務局2回。「認知症の方を支える会」で社協。

 とにかく忙しかった。本を読む時間は取れたが、ブログ更新の時間はなかった。

ところで去年、ボヘミアンは国語辞書を「あんた使わないだろよこせ」(痛いところを突きやがって)。

 今年になって「辞書なくした、買ってくれ」、

「何なくしたのか、古本屋で買ったとは言え、気に行った辞書だ、本当はお前にやりたくはなかった、探せ」

「探しても見つからないから買ってくれと言ってるのだ」

国語辞典は古本屋で買う、安いし、結構新品同様の掘り出し物があるのだ。しかし国語辞典は買う人が多いせいか、絶対数が漢和辞典、英和辞典、和英辞典に比べて量が少ない。しかし買う。

そして、いかにも学習辞典と言う感じの物、一般向けの物をを買った。

「どちらにするのだ?」

「これ」(一般向けを選びやがった、ちきしょうと思った、しかし辞典を選ぶセンスあるなと思った)。

そしたら昨日「辞典が出てきた。ハッ、ハッ、ハッ」

「何、返せ、お前にはこの前買ったのがあるではないか?」

「いやだ」

「2冊も使うのか?」

「そうだ」

 実際おちゃんがいいと思う辞書をボヘミアンも狙う、コンパクトで、語彙数が多い奴。亡くなって、出てきた辞書はそうなのである。中学生には分不相応である。だから悔しいのである。

 本当に悔しいのである。辞典返せ。なぜ悔しいかと言うと、収録語彙は7万6千5百、最近買った2冊の辞典はどちらも4万6千なのだ。中学生は4万6千で十分だろう。なんで大人が4万6千、中学生が7万6千5百、おかしくないか。「新世紀」やるから返せ。いかにも辞典と言う辞典だ。百科事典と国語辞典が合体した感じ。賢く見えるぞ。

タイムスリップ

2011・5・1

 最近10代後半から20代前半に読んだ本を読む。「日本沈没」、「霊長類南へ」、「青春の蹉跌」、「私が棄てた女」。

 音楽、ミッシェル・ポルナフレ、タイガース、ヒデとロザンナ、昔の「オールナイトニッポン」、しかしよく思い出してみたら、今のボヘミアンと同じ中学3年生の時の曲。ボヘミアンと同じ年の頃の曲を聴いてる。

 ボヘミアンから通信教育の資料を取り寄せてくれと、記憶術。おちゃんも同じころ英語の通信教育の資料を取り寄せて、通信教育受けたが続かなかった。ボヘミアンはどうなるか?続かなかった親が、心配する、子が同じ轍を踏まぬ事を。

 ボヘミアン「週刊ジャンプ」、「Vジャンプ」。おちゃん、「週刊マーガレット」、「別冊マーガレット」。

 ボヘミアン出来ぬ事、鉄棒、縄跳び、跳び箱、リコーダー、音楽、体育ぺけ。おちゃん、ボヘミアンと同じ。

 内申点の稼ぎ方、留年しない方法、成績が悪い分出席日数で稼ぐ。親子で同じことをする。

 検定試験、ボヘミアン「漢検4級」、おちゃん「英検3級」、おちゃんは落ちた、ボヘミアンはどうなるか?

 よくここまで同じ事をする、特に同じ事をしろと言ったわけではない。ボヘミアンが勝手にしてる事である。同じ事をして親はそこそこ普通に生きてきた、問題も起こさず。よってボヘミアンに対してもいらぬ心配は無用である。

 なんて事をエビスのねーちゃんに言ったら、「ひ、ひ、ひ」と笑っていた。特に味覚糖の「純露」がボヘミアンの好物と言ったら。ねーちゃん「昭和だ」と言う。

 おにぎりは番場の忠太郎並みに母の作った塩むすび。中味なしが好みである。ねーちゃん曰く「うそ、戦前でも良かった、生きていける」、ボヘミアンは生活習慣が昭和か?

 顔似てるかって?そっくり、「行き写しで気味が悪い、コピーだ、似ると言ってもここまで似るとは」と言われた。

 タイムスリップして良かった、最近頭が疲れる。リフレッシュのため40年前に戻して、音楽、本を、漁る。

書かない理由

2011・3・21

 今までブログを書いてから今回ほど長期の渡り書かない期間はないと思う。今年でブログを始めて3年。今回の大震災はある前から書いていない、しかし今回の震災があってから考える事があり、その整理のため書かなかった、いや書けなかったといのが真実だと思う。

 この期間のアクセス数だがダントツ弘前カウンセリング研究会についてのワードが多い。この小さな団体に対して興味、注視してくれた事は大変ありがたいと思う。しかし、ある理由があって当ブログにおいては弘前カウンセリング研究会について今後一切載せない。当面の間、コメント、トラックバックも一切受け付けない。当ブログにおいて弘前カウンセリング研究会の言葉を使うのは今回で最後である。

 ある理由とは、他県のカウンセリング活動をしている人が、コメントもなく当ブログの内容を自己のブログに転載したからである。己のブログはリンクフリーかもしれないが、他のブログも同様の事をしていいのか、よく考えてほしい。すぐ削除を申し出たが、削除はしてくれた。しかしその時もコメントなしである。人の行動ばかり見て、自分は沈黙を守り、何も語らず透明人間のごとく行動すると言う事はいかがものであろうか。

 この薄気味の悪さ、ましてプライバシーを守らねばならない、カウンエリングにおいて、これ以上記事を載せる事は問題ありと判断、会員の個人的な尽力あって、数年前に比べれば知られるようになり、協力的な会員外の個人も出てくれたので、もう載せる必要もないと判断した。

 己のマイナス面に目をつぶりカウンセリング活動するのはいかがなものだろう。己のマイナス面を受け入れながら、カウンセリング活動すべきではないか。つまり己の限界を知る事。それもせずカウンセリング活動をする事は無責任である。ただカウンセリング活動をしたいからでは困る。ある意味、単純に良い人ではいられないのがカウンセラーである。

 かわいそうだからとか、中途半端な同情は良くない。そんなものは単に障害物であり、己の自己満足であり、クライアントにすればいい迷惑である。出来ない時は出来ないと言う勇気、出来ないけれども、出来ない自分を知って受け入れやっていくか、ある意味矛盾を抱えながらやるしかないと思う。そして自分もクライアントの経験がある事、クライアントの経験のない物は、クライアントを傷つけるかもしれない、しかしそれも経験として受け入れる。

単に失敗にしないことである、失敗から学ぶである。おちゃんはカウンセリングの学習をっしてもカウンセラーになるか、多分出来ないだろう。なぜなら、個人的に次々問題が起こり、いつまでたってもクライアントと言う立場から抜ける事が出来ない。そして問題を整理するだけで精いっぱい。出来るわけないだろう。

 カウンセリングの勉強をして、もっと早くしておけば、家族ともうまくいったかもしれない、というおバカな事を言うものもいる。家庭でカウンセラーみたいなこと出来れば(自然に、意識せずとも)、誰も苦労はしない。出来ないからカウンセリングを受けるんだろう。カウンセラーが家庭で、身内に対してカウンセリングをしてるなんて聞いたこともない。出来るとすれば、よほど出来た人か、機能不全家庭である、子ども、親父に対して一定の距離感を持って接する事が出来るか、出来るわけないだろう、感情移入の方が多いだろう。

 ・今回の大震災で考えた事。

自然災害における介護の考え方、特に施設介護の限界、、在宅介護の今以上の重要性。

していい我慢、して悪い我慢をどこまで自分で判断する力があるか。(高齢者の我慢のし過ぎ)

徹底してつけられる優先順位、必要な人、必要な場所、必要な場所、だからしのげる人は当分しのいでもらう

適切な言葉がけ、良いと思った言葉でも相手を傷つける事がある。言わぬが花、言葉がけより見守りの重要性。

無駄に動くな、はた迷惑な時も、エネルギー、体力の無駄、じっと待つのも大事。

情報を流す場合、言葉に気をつけたい。あいまいな表現は避ける。判断に困る。情報は整理、確定的な表現、確実に分かる表現。

エコに関する考え方はもっと進む。今までの価値観は根底からひっくり返る。

今までの価値観は通じない。

カネがあるから、力があるから、通じない。今までの良き人間関係がものを言う。

引きこもっていられない。外に出るしかない、引きこもってる場所もない。余裕もない。

適応能力、コミニュケーション能力のあるものが有利。無ければつけろ、外に出ろ。

・最近驚いたこと事

吉田拓郎が、オールナイトニッポン・ゴールドで、坂崎幸之助煮説教した。年取ったなー。

泉谷茂は良い人になった(最近ここ数年、良い人になったが)。反体制の旗手が。丸くなった。良いのか悪いのか、毒が欲しい気もする。

日本人の欠点と言われる横並び意識、大震災では美徳となる。改めて時によっては横並びも大事である。何でもかんでもダメと言っていた、自分に反省。

心配

2011・2・10

 昨日の読売新聞を見てたら、川口君がはやぶさ君を前に両手を広げた、新しい著書の広告を見た。にこやかに笑ってる。しかしいつも新聞、ネットで見るお顔はにこやかである。

 しかし心配がよぎった。おちゃんだって今抱えきれない心配があるのに、人の事を心配してる場合ではないが。

 バンバン、著作を書いて、講演などなど。超多忙だろうが、落ちついたら早く本業の学者に戻っていただきたいなーと思った。

 なぜ思うのか、戦場のカメラマン氏を見ていると危なっかしいのである。本業から離れ過ぎている感じ。早く本業に戻らないの?といいたい。その点マスコミで生きてる池上彰氏は、3月いっぱいでテレビは辞め本業のジャーナリストに戻る。人間、見切り、辞め時が大事である。

 なんて話をエビスのねーちゃんと話してたら、「私もそう思う、でも川口先生のトーク面白いし、分かりやすい」、バラエティーかいと思った。しかし学者でも、テレビ局に歓迎される学者と、歓迎されない学者もいる。利用されるだけ、利用して「あなたもう良いです」なんて言われた学者もいるとか。ならば言われる前に自分で言えばいい。と思うが、おかしいか?

 アンてことを書いていたら難問一つ解決。バッチヤが自分からグループホームに行くと言いだした。本当はどうやって行ってもらうか、この難題に悩んでいた。自分から言い出したので一歩前進。さっそケアマネに連絡、次の訪問にじっくりバッチヤの思いを聴いてもらう。看護師にも連絡「早い方が良いですね」、うんそうだ。しかし今度は次の冬につなげばいい、バッチヤ自身冬はこりごりなので、今度の冬は楽になるという風につないでいく。

 しかしバッチヤの場合、グループホーム脈ありのサインはあった。フラフラ、イライラ、モヤーっと言う身体の不調を訴える言葉。別なデーサービス(少人数)を見たい、入院したい。自分でADLの低下を自覚、なのでもっと楽な環境にいたい。ドクターの「老人ホームどう?」で一気に出た、グループホームに行きたいと。

 主題は第一声に出る、主題は繰り返される(中村喜久子)。主題は本人が気にしてる事、悩んでる事、不安である事、本人自身の悩みである。もう少し主題について説明すると、似たような意味、似たような言葉で繰り返される。バッチヤはこの一年、身体の不調の言葉を繰り返していた。そして今年になって、環境を変えたい意味の言葉が繰り返し出た。そしてドクターの一言で決まり。

 まだまだ心配事たくさんあるが、一個片付きました。

 

 ところで「はやぶさ君」の回収カプセルから、地球外の物質が発見され文科省で記者会見があった日。南のクラス会をしていた。おちゃん、お水の世界何十年のママ、草取り校長、元デザイナーで今介護士。

デザ 「川口よ、南さ、文化祭の時来てあった」

草 「何来てあった?なして教えねのよ、知ってれば、市民栄誉賞の時、川口さ聞いたべな、わ、あの時行ってらんだね」

お (草、おめど、おらは中学校一緒でも、デザは中学校違うべよ、高校入学前わがるわけねーべ)と心の中。

マ 「はやぶさって何?川口って何?」

草 「はやぶさって、あのはやぶさよ」

マ 「ふーん、すごい」

お 「文化祭の時、関山(幸弘)弁慶やった」

草 「N」響だもんな」

マ 「みんなすごいなー」

お 「でも変わった奴多かった」

草 「馬鹿ばりだね」

デザ 「娘の務めてる店さ関山きてよ。娘が関口さんですか?って聞いたのよ。そしたら関山ですって言われて、関山さんの友達の娘ですっていってよ。ウォーってことになってよ

全員「ウォー!」

 考えてみれば変な奴が多かった。高校の時は本当に楽しかった、勉強はほとんどしないけど、とにかく楽しくて言っていた。「なして弘高自由で、南不自由なのよ、おがしくねが?」

「弘高並みの自由を」と、生徒総会を開いてかなり自由にした記憶がある。先輩が「高校生らしさって何ですか?」って先生に聞いたら、答えられなかった。

 今の自分はこの質問に答えられない。

認知症

2011・2・8

 認知症は誰でもなりうる。アルツハイマー型の認知症、脳細胞の脱落、80歳を過ぎるとドンと増える。しかしなぜか脳がアルツハイマー型の委縮をしても発症しない。しかしアルツハイマー型の認知症が多いのは脳の老化を考えれば、自然と思う。

 老人性うつから認知症、これはライフイベントでの喪失体験、これはきわめて個人的な事である。おちゃんの周りの認知症はほとんどこれである。息子が死ぬ、長男夫婦を折り合いが悪く親子の縁切り状態、配偶者の死、急に体を動かさなくなった(もともと体を動かすのが嫌いで運転免許返上)、一日中ゴロゴロ、気力、意欲がない、年のせいと思う。ところがどっこいいつの間にか、認知症。

 脳血管障害、これは生活習慣が原因。と言ってなる人もあれば、ならない人もある。個人的に認知症にならないと言う事はかなり無理である。と思う。アルツハイマーのリスクは誰にでもある。認知症で一番多いから。ライフイベントは誰にでも起こる、しかし喪失体験をどの程度受け止め、どのように処理するか個人の力量で、避けられるかもしれない。当然周りの人間関係が非常に大事であるが。孤高を保ってる人は辛いなーと思う。やはり話し相手があればいいが。

 最近知り合いがアルツハイマーになった。数か月前までぴんぴんして普通に話してたのに。特に大きなライフイベントもなく。結論アルツハイマーだけは誰にでもリスクはある。

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