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心と体

健康不安社会を生きる

2010・5・23

 人は健康と不健康(病的状態および病気を含めて)の間に揺れていると思う。絶対的な健康はあるえないと思う。身体、精神を含めると絶対的に健康であると言うことはおかしい。この揺れをホメオシスタス、恒常性、自然治癒力、言葉の使い方はおかしいが、不健康ならば、健康に近い状態へ持っていこうとする力を人は自然に持っている。

 ところが最近は健康であらねばならない(健康に越した事はないが)と言う意識は、もう強迫神経症的になってる。健康診断のデータに一喜一憂。健康診断の近くに脂肪分の多い食事をしてるとコレステロール値は上がる、しかしその記憶がスコンと抜けると病気と騒ぐ。健康診断の時緊張したりするとデータも平常の時と違って出る。それを忘れて病気と騒ぐ。だからこの頃は医者の方でもあまり数値を気にしない人も出てきた。数値をあまりにも気にする患者が多くなてきたからかもしれない。逆に神経質になりすぎて、メンタル的な病理になられても困る(あまりにも無神経すぎても困るが、最近は思考力のバランス感覚の鈍い人が多くどうしても二者択一で考えるから、境界型というあいまいな存在は良いなと思う)。しかし精神科の医者に言わせると、身体の医者はデータを重要視すると言う、そうだろう人の心理、精神なんて数値化できないもの。人のありようは数値化できないよ。言語化、行動化は出来ても。

 2003年の「健康増進法」をあげ、ある程度の数値目標は親切ではあるが、労働環境、社会環境に配慮が足らぬとある。自己管理の甘さもあるが、環境因子は個人ではどうにもならぬ、それを自己責任の求めるのはおかしいと。その通り。

 「運動器の痛みとつきあう」の章は痛みは完全に治すと構えずにとあり、良い章である。本当に身体から来てるのか、老化による物なのか、心理的な物か、原因をつかんでからの治療だし、ある程度の痛みには付き合っていく事が大事とあると。この意見はおちゃんは整形外科の先生から聞いたし、整骨院も「仕方ねんだ、痛みと付き合うしかねんだ」と言う。ちゃんもばっちゃも痛くて苦しいとすぐ鎮静剤を使うが、この二人どちらかと言うとストレスが貯まりやすい。そして抜けにくい。だからある程度の心理的関与もある気がする。

 しかし一番ページ数を割いてるのは「健康情報とつきあう」である。健康情報は膨大であるそれをどのように選択するか、情報に惑わされないためには、こちら側の知識武装、不安心理を巧みに突くので、そこをどのようすり抜けるかが書かれてる。整骨院に言わせると健康食品の情報は全部ウソだと決めてるから、健康食品は買わないそうだ。親が健康食品を買うと無駄な物を買ってと思うらしい。言説に惑わされない(こうである、そうであると言う、一括りにしてしまう、決めつける様な言い方)、疑う習慣等、もう探偵的。

 今の社会は不安と言うが事実その通りであるが、周りでも不必要に不安をあおってる気がする。また日本人は不安に煽られやすい。不安をあおって健康、美容ビジネスも成り立ってる、不安を消すメリットを強調、しかしデメリットは流さない。しかし物事にはメリット、デメリットがある。河合隼雄ではないが結論、真ん中で考えましょう。

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認知症

2010・4・21

 認知症とうとう来たか。バッチヤだけではないおばもなった。配偶者は気がついてるか多分少しおかしいくらいなのだろうか、違う多分はっきり気がついてるはず。このちょっとおかしいが曲者、年のせいでとほっておけば取り返しがつかない。しかし大概はまだ良いだろうと思うが、はっきりおかしいと気がついた時はかなり進んでいる、手間もかかるがお金もかかる、精神的にはもっと参る。しかし何よりの大事なことを本人はともかく家族がシカと認知症と言う現実を受け入れてどうすればいいか対策を立てること。

 今日は三冊の本を取り上げるが何より驚いたことは病態失認的態度である。一見記憶障害に悩んでいるように見えても、一つ一つの物忘れのエピソード(いつ、どこで、何をしたと言う個人の生活上の記憶)に対して、意外なほど動揺を示さない。この症状を伴って初めて記憶障害は日常的不適応を生み認知症特有の記憶障害へ転嫁する(「認知症とはなにか」より抜粋。)

 つまり年のせいだから物忘れをするという段階、日常生活にさして支障をきたしてない段階である。しかしたいしたことはないと思っていても進行してる場合もある。これがアルツハイマーであれば年単位で進行する。知人でも3年前はアルツハイマーで車を運転、自力歩行完ぺきが現在はほとんど杖なしでは歩行できない。バッチヤも歩けないが3年前と今もあまり変化はない。つまりバッチヤは今のところただの認知症でアルツハイマーでない。介護職の友人に相談しても「認知の進行がほとんどないからただの痴呆だべ」と言われた。

 「認知症とはなにか」

 第一部が「認知症の医学」、第二部が「認知症を生きる心の世界」で構成されて、大変丁寧に認知症について説明されてる。特に認知症の原因になる疾患が100くらいある事はびっくり。認知症に間違われやすい症状も載っており(ミスター整骨院に言わせると作られた痴呆、入院してアッパラパーになる環境不適応、家に戻ると治まる)、ただ単に認知症に目をやるだけでなく似たような症状を呈する場合とか、なぜそうなるとか老人の心理をもとに書かれてる。老人の心はガラスのようにもろいミスター整骨院に言わせると、早い話が不適応を起こしやすいだから混乱する、だからアッパラパーになる。ともすると凡人は症状にばかり目を奪われるが、そうではないと老人の心のありようで説明する。認知症を理解する(ただ病気として理解するとは違った意味で)ためにはとてもいい本である。

「痴呆を生きるということ」

 この本は「認知症とはなにか」より前に書かれた本で「認知症とはなにか」の第二部が後を受けた形である。痴呆を生きる老人の心のありようを書いたものでなぜも問題行動を起こすのか、介護拒否を起こすのか。われわれはただ眼に見えたその行動を問題と取ってはいけない、心を見ないことにはその問題行動を理解しケアすることは出来ないだろう。問題行動を超すからという気持ちで介護するのと(問題行動の表面だけ見る)、こんなところで不安なのだなと心のありようを見て介護するのでは介護する側される側の気持ちが違ってくる。河合隼雄が言うが登校拒否の場合でも単に症状を見るのではなく、何が原因か心の底を見る、そこから治療が始まる(カウンセラーが治療するのではなくクライアント自身の気づきの中で治っていくが)。ボケてない人から見れば(外側から見てれば)理解に苦しむ。しかしボケた人はその不自由さの中で生きてる、進行すれば不自由さを表現することはもっと困難だろう、しかし不自由さの中で生きてるという感覚を持ってるという。不意を突かれた感じである。介護は目に見えた症状に追いまくられて心を見ようとしないので地獄なのだと感じた。しかし理解しようとすればかなり苦しいし、出来るかな言えばと疑問である。しかし不自由さに中で生きてる事だけは理解したい。

「ボケの予防」

 この本も認知症について丁寧に書かれてる。前の2冊より丁寧かもしれない。前2冊がウェットならこちらはドライである。しかしなんと認知症に移行する疾患の多い事。ボケなんてトランプのババ抜きみたいなもんで、早く上がってボケる前に死ぬか、長生きしてボケと言うババを引くかである。この本を読んで印象的なのはボケも生活習慣病的な色彩が強いと感じた。高齢になれば脳が萎縮するがそれだけでボケるとは限らない。知的好奇心が旺盛ならばボケない。食生活について多くのページが割かれてるが、特に脂肪の取り過ぎ、脂肪の種類である(生活習慣病から痴呆へ移行する場合もあるからでしょう)。今注目のトランス型脂肪など。まー小難しい栄養学の言葉も出てくるがバランスの良い食事、好き嫌いなく食べるである。若い時は動物性脂肪もいいが、中高年になったら魚類を多く食べる。酵素をとるためにも果物、野菜。そして適度に体を動かす。それからストレスをうまく回避すること。うつ病に関しても食生活を重きを置く方向にある、つまり精神疾患も日常の食生活が影響してる。食生活のバランスの悪さが鬱的な症状を呈する。

 結論

 誰もボケにはならないという保証はない。この3冊を読むとチラチラと出てくるのは同じボケでも問題行動を起こしやすい人はその人のライフスタイルも影響するらしい。ストレスに弱い、一人を好む、好きな物しか食べない、すきなように暮らす(好きなように生きるではない)、やたら自立することが良い(一人で生きる誰の世話にもならないという考え)とい思い、やたら世話好き、上から目線の生き方。面倒臭がり。ボケを避けられないだろう。しかしボケに向かう年代は正しいボケについて知るべきであり、痴呆老人の心のありようを学ぶべきである。介護した経験から言うと今の老人認知症を正しく理解してないし厄介な物しかとらえてない。家族に迷惑を掛けてるという思いである。マイナス思考。病気になる前は良いだけこの病気を馬鹿にし、なると顔が蒼くなるとい感じ。これからは認知症を正しく理解し、なるべく進行を遅らせるしかない。年をとると機能低下は避けられない。つまり年をとることを受容することである。まだ目立って老化を感じないうちは年だからと笑ってられるが、年を重ねるうちに老化は目立つだんだん笑っていられない蒼くなる。焦る、不安。元には戻らないという怖さ。おちゃんは今でも怖いと感じる。じっくり時間を掛けて受け入れるしかない、

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カウンセリングを語る

2010・1・5

 大晦日からのドカ雪、毎日2回か、3回の雪片づけ、もうへロヘロ。年始からのドカ雪は近年珍しい、いくら寒の入り前とは言えこれからドウナルンジャイ。ボヘミアンはとうとうおちゃんより背が高くなり、足も26.5一番でかい。ときどき家の中で踊るとボヘミアンに「あんた、頭飛んだの?」と言われるが、おちゃんは多少変わっている。自分で多少変わってるという意識がある事は、変わってないと言う事。もし本当に変わっていれば、変わった事に気がつかない。

 ボヘミアンも変わってる、確かに変わった親子であるから生き辛い事はある。ボヘミアンも自分が少々変わってる事は気がついてるらしい。一般論としての意見を聞く気がない、もっと本質、本音の部分を大切にする、自分に正直に生きる事を大事にするのである。しかしどこまでも自分を通すのは馬鹿である。そんな時は良い意味で、誤魔化す、騙す、いい加減にする、適当にするである。早い話すが何を考えてるか分からない親子である。しかしこれは人生長い目で見れば賢い生き方である。自分を自分らしく生きることである。

 ところが世の中良いか悪いかの二極論で生きる馬鹿が多すぎる。誤魔化す、騙す、いい加減、適当を許さない。これを悪い意味でとる。10代の若い者なら分かるがいい年の大人も二極論である。中間で考える事がない。河合隼雄は真ん中で考えよと「カウンセリングを語る」で書いてある。全くその通りである。おちゃんは前からボヘミアンに中間で考えろ、答えは二つ用意しろと教えてある。人は自分の期待する答えを求めたがるがそうはいかない。相手に答えを求めた時AかBどちら選ぶ、しかし答えを求めた方はAかBどちらに転んでもいいように考えていた方が楽である。期待しすぎないことが大事である。

 この本は現在カウンセリングを勉強中の方、カウンセラーを始めた方にとてもお勧めの本である。傾聴、受容、共感、自己一致全部できるか、出来なくはないがかなり無理である。無理をしようとするから苦しむ、だから限界を知りなさいと河合隼雄は説く。己の限界の中でやっていく、もし限界と分かれば、駄目だなと思えば、別な人を紹介しても良い。しかしいい加減ではいけない、腹を据え、クライアントと対峙して、真剣勝負でやれと。それでだめなら断われと。しかし不思議なもので真剣に真っ向勝負に出た時、うまい具合に困難な物事がうまく運ぶと言う。多分本当に真剣にクライアントに対峙した時、その真剣さがクライアントにも伝わり物事が運ぶのではと思う。

 親が子を叱るとき聞く時と聞かない時がある。聞く時は親が真剣であるからだと思う。聞かない時は親がどこかで良い加減か、親中心ではないかと思う。年がら年中真剣勝負では体が持たない、だからここぞと言う時は真剣勝負で、後は良い加減で良いような気がする。カウンセラーはクライアントによって育てられる、限界と感じながらクラインとと一緒に歩く。そして幸いに限界を乗り越えた時、カウンセラーは一歩成長と言う。しかしカウンセラーとはしんどい、苦しい仕事である、だからこそやりがいもあると言う。

 カウンセラーには次々と壁がある、おちゃんはカウンセラーではないがあんな壁、こんな壁と想定できる壁がある。その壁にぶつかったときの考え方、見方も書いてある。オーなるほど、フンフンである。カウンセラーはクライアントのしんどい話を聞くからしんどくなる。そのしんどくなったカウンセラーを助けるのはスーパーバイザーである。しかし河合隼雄はカウンセラーの数は増えても、経験豊富なスーパーバイザー、カウンセラーは少ないと嘆く。1985年の段階で話してるが、現在も状況は同じ気がする。あるキャリアカウンセラーが「私疲れるんです、話を聞いてると。どうすればいいですか?」

 おちゃんはハロワ、能力開発センターと仕事を得るための相談に言ったのに、相談員から分かってくれない、理解してもらえない、ピント外れの人が来ると言う話を聞かされた経験がある。おちゃんは何しに行ったんだと思う時があった。結論今の日本中の相談員介護職、カウンセラーは疲れてる。人を相手にする仕事をする人は疲れてます。人と接する仕事をする人にも勧めます。

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異常性愛の精神医学

2009・12・8

 かなり精神科医の本を読んだ、多少なりとも感じたのは他科の医者に比べたら批判が多い。どれを支持したら良いのだろうと悩む。マー今言えることはたくさん読んで、自分なりの評価を下し多数決ではないが、共通項を支持することであるなと感じる。

 一読面白い。しかし女性が強くなり、男性が弱くなった今、異常な性犯罪は起こる確率が高くなる可能性がある事を感じた。弱くなった男性は自分より弱い立場の人に矛先を向ける。また強くなった女性に矛先を向けるとき、残虐な行為に及ぶこと(かわいさ余って憎さ百倍か)。

 性情報に関してはどうしてあんなに暴力的なものが多いのかと呆れてしまう。しかし脳の仕組みからいえば、性ホルモンの中枢、性行動の中枢、攻撃性の中枢葉脳の比較的狭い部分に隣接(大雑把過ぎるが)、一つの中枢が刺激されると他の二つの中枢も刺激されるらしい。男はそれで性欲が高まるかもしれないが、女にとっては堪ったものではない。女はこういうものだと思い込んで挑まれたら堪らない。

 ところでオスはもともと攻撃的であり、オスがメスを征服するという形で性交がある。男は力強くなくてはいけない。しかし現代において男は強くなくてもいい、強さをさほど必要とされなくなった。と著者は言うが大変面白いと思う。 逆に強い事を誇る男は要らないし、自慢にもならない。いかに女と調和していくかを求められる。強い男も要らないが、弱い男も要らない。おちゃん的に言うと強い男は浮き、弱い男は沈んでる。著者は現代の男性が弱くなったのは、戦中戦後の厳しい社会で育ち母親の愛情を十分に享受できなかった。甘えの通用する母性的な社会が様変わりして甘を許さない社会になったと著者は言う。、少なくとも成人した男性の女性に対する甘えは許さないという社会に変化した。

 また母子密着で弱い子供が増えた原因かもしれない。しかしオスとしての本能を持ったままで、女と対峙した時弱いと言うのであればオスとしての本能を発揮できない。それが積もり積もって性的な犯罪に繋がるとすれば、被害を被った女は堪ったもんじゃない。昔は男だからと許された部分もあった、遊郭、浮気、家庭での居場所、父親としての権限。妻は夫を立てるとか。しかし今は遊郭もない、浮気も許されない。男女平等、夫婦平等だから、夫、男は立てる価値があれば立てるが、なければ無視される。

 犯罪心理の本を読んで多く書かれているのは思う事は、情性の欠如があり、特に早期の母子関係であると言う。母親から愛情、安心を受け取り十分甘えると言う事。これが希薄であれば情性が欠如する。三つ子の魂百までもである。著者も生後8カ月までは母親が育てることが望ましいと言う。

 確かに現代は男にとって生きにくい時代である。この本も神話などから異常性愛と思われる話を載せている。今も昔も異常な事件はあった、多くは女が犠牲となる形で。性差を別として、今後男女の差が縮まりほとんど互角になった時、男としての能力を発揮できない男はどうなるだろう。

 

サイコパス

2009・11・19

 この本は読みにくい。なんせアルファベットの略語が多くて、何度索引を見て読みなおしたか。眼窩前頭前皮質を知りたい人にはお勧め。飽きる位出てくる。サイコパス、精神病質または反社会性人格障害。疾患ではないらしい。しかしこの本を読んでわかった事は、今まで本人の体質(適切な表現かな?)と環境が働いて、反社会性人格障害になるらしいとされたが、そうでもないらしい。

 眼窩前頭前皮質、扁桃体の損傷を受けた場合の関与もある。おちゃんがショックなのは出産時合併症を伴って生まれた乳児は将来行為障害、非行に繋がりやすいと言う。特に社会心理的要因が重なった時リスクが高くなるらしい。出産時合併症とは、低酸素、かんし分娩、妊娠中毒症で、脳損傷をおこしやすい環境因子となると言う(おこしやすいのである、なるとは言ってない、ごくごく当たり前の環境であればそうでもないらしい)。出産時合併症を経験したくはないが、悪阻、妊娠中毒症は程度の差はあれ、妊婦の多くは経験する。ストレスを避けるようにと言うが、精神的にも、肉体的にも妊娠中はしんどい。ここいら辺が原因でもあると、妊娠するのが怖い。丈夫な赤ちゃんを産みたい、難産はしたくない。異常分娩はしたくない。神のみぞ知ると言う感じ。

 つまり脳の器質損傷・障害である、しかしこれは誰のせいではない。一つの不幸である。しかし育児環境、家庭環境、広く言えば社会環境も劣悪であれば、もう一段リスクが上がる。しかしこれもサイコパス本人のせいかなと考えると、親を含めた大人の責任、たとえば虐待とか、ネグレクト。おちゃん的に考えれば、サイコパスは二重の意味で、不幸な星のもとに生まれ、不幸を背負って持って生まれたことになる。

 環境ストレスも脳の発達に影響を与える。脳のシステムに障害をおこす。環境とは、家庭環境、育児環境を含めた成育環境と考えれば、諺「氏より育ち」か?眼窩前頭皮質の発達は2,3歳までと考えれば諺「三つ子の魂百までも」か?「教えて?子供の反抗期」、「サイコパス」を読むと楽観主義ではいられないと感じる。

 ある程度育ててしまうと、後戻りが効かない、子育てにはやり直しがきかないである。異常な反抗ではない限り、子供のあるがままの姿に期待するしかない。しかし、あるがままを見ると言う事は非常に難しい。親が子供のあるがままを見る事は相当の辛抱である。ついつい言ってしまうのが親、手を出してしまうのも親。親も子供の頃は逆らってきたが、親になると逆らう子供に意見する。不思議な現象が代々続く。

 今まで子育てに関する本を読んだが、どこか楽観主義的な本もあった(きれいごとである)。しかし現実はそう簡単なものではない。子供の頃のトラウマを生涯ある程度引きずるものである。そのトラウマがマイナスに作用するか、本人しか分からない。トラウマは持ってる本人しか分からない。結論、極端な子育ては(事の善し悪しは別にして)、子育てしてる本人は気がつかない。気になってるうちはまだ良いにかもしれない。気にし過ぎるのもダメ、気にしさな過ぎるのもダメ、ほどほどが良い、ほどほども難しい。

「甘え」の構造]

2009・11・4

 初版昭和46年、著者は今年亡くなった。たぶん今後も多くの人に読まれると感じた。38年前に書かれた本であるが、今の時代背景と変わらない、もともと日本は甘えを許す、受け入れる国なので、今も昔も変わらないのかもしれない。学生運動も甘えの一つかなと考えれば、いたずらに社会を混乱させただけで、何も残らなかった。一体なんだったのだろう。ただ社会に対して不満をぶつけただけで、要求が通らないのが分かると止める、まるで駄々子である。校内暴力の影響はまだどこに残っている、まだどこかで起こっている、こちらの方が傷が大きい人格が完成された大学生と違い、まだ人格完成の途上の中学生だからその傷がいえないまま成人した人もいる。、いろいろな原因もあるだろうがこれも甘えが原因かもしれない。

 心理、精神を表現する日本語には「甘え」と言う意味が多く含まれている。その言葉一つ一つに精神、心理的意味を発見した労作であるし、われわれが日常意識することもなく使っている言葉に、こんな意味があるのかと改めて感じた。読んでいると精神科医が書いた本と言うより、国語学者が書いた感じがする。門外漢とは言いながらよくぞここまで、丁寧に調べ解説しているなと驚く。

 しかしこの本を読むとき、多少精神、心理の知識もないと戸惑うかなと思ったが、各章の終わりの部分に解説がある。読み進んでいくうちに感じたのは日本人の感覚の中に十分甘えたい、甘えさせるものがあり、十分甘えることができなかったものが後年精神疾患になりやすいという指摘はなるほどと思った。また内と外、本音と建て前と言う日本人独特の思考も、身内に甘いが、他者には厳しいという指摘もなるほどと感じた。しかしこれが存在するから、簡単に甘えを許す、受け入れると言う事にはならない。バランスが取れている。笑ったのは家族では日常の挨拶はしないが外では挨拶をする、家族では甘えがあるからしないが、外面で外では挨拶をするなるほどと思った。おちゃんもボヘミアンには内と外を使い分けろと言ってるが。

 欧米では、自律、自我、自由の社会である。甘えと言う事が許されない(だから、個の自律性、自由が重要視される)と言う訳ではないが、甘えに相当する言葉が少ないらしい。甘えとは依存であるが、病的にならない程度では日本では許される。しかし欧米では良く思われないから、甘えたいという心理状態になった時、人は苦しむらしい。著者が留学中に治療者と患者の治療の様子を観察した時、治療者のそっけない態度にびっくりしたという。これはおちゃん的考えかもしれないが、同じ治療者でも欧米では症状を良く見、分析、原因、診断である。しかし日本の場合どうしても(DNAでもう甘えがしみ込んでる民族)、患者の現象でとらえるつもりでも心の中に介入してしまうから素っ気ないと感じるのかなと思う。

 甘えと自立・自由のバランスで生きていければ良いが難しい。欧米では個として生きていくことが要求され、すがることは好まれないから、すがりたい時は苦しむ。日本では自立して、自由に生きなさいと言われればどうしていいか悩む。アー難しい。しかし甘えと言う現象をここまで追求すると(良い悪いは別として)、悪ものではない、逆にうまく利用するかと思う。また日本人の特性なんだから、何でもかんでも自立、自我と強制することもない。

 結論、内と外、本音と建前の使い分けが一番。ハッキリ、クッキリ区別するのは良いけど角が立つ。これって結構苦しい。やたらセンテンスが長い文章で、ちょっと苦しいけどいい本です。

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精神科医になる

2009・10・12

 本の題名から著者がなぜ精神科医になったか、その道程を書いてるのかと思った。しかし副題に「患者を分かること」とついてる通り精神科の医師がいかにして、患者を分かるかという事が書かれている。

 身体科の医者と違って具体的なデータ、典型的な症状が出るわけではない、患者の様子と自分の臨床経験、精神科の先輩医師から意見を聞きながら、成長していく。身体科の医師とは違う、曖昧模糊とした,精神と言う例え様もないもの、症状の変化する患者を治療していく姿は職人芸のようである。

 また著者は言語を通しては分かりえない、医者と患者との身体感覚を通して分かり合えるコミニュケーションを著者は「生体との会話」と呼んで、精神科医は様々な角度から会話できるように、そして自分の経験(臨床経験、精神科の医者にとっては自分の財産のような感じがするとおちゃんは見た)と重ねて治療へと進む。

 春日武彦の精神科医は腹の底で何を考えているか (幻冬舎新書)を読んでも、薬の調合にしても精神科医によって職人芸的なものがある言う、また著者も精神療法も医者によって様々な組み合わせがあると言う。ここではキャンパスに自由に絵を描く絵描きのようでもある。臨床の初心者が先輩医師について臨床をする記述は、徒弟関係のようにも見える。

 分かった事は身体科の医者と、精神科の医者の違いが分かった事、収穫は大きいなと感じた。また精神鑑定において、医者の見解が一致しないこともわかるような気がする。また何冊か今まで精神科医の書いた本を読んだが、医者同士の批判が多いのも精神科医の特徴のような気がする。ここでもDSMに対する批判が出ていた、DSMは役に立つ参考になるという意見は多い。しかし頼りすぎないこと、自分の経験で見ることが大事であるという意見が多い。

 おちゃんは何人かの精神科医に会ったことがあるが、共通してる事がある、顔を見ないのであるなぜか。ただ女の先生ははっきり顔を見て話す、カルテを書く。男の先生は顔を見ないで背を向けるようにして話を聞き、カルテを書く。何冊の精神科医の本を読んで分かった事は、患者と適切な距離を置くことができなくなる時があるらしい。患者に取り込まれる時があるらしい。その医者と患者の微妙な距離感、その距離感を保ちながらの診察、患者の語る物語を聞きつつ、カルテを書く。まるで通訳者のようでもある。そして自分を保つという事も脇で考えながら。

 カウンセリングでも介護者の場合でも、よく言われるのは相手にのめりこまないようにである。何も見えなくなる、相手と同じ土俵に立ってしまうので、ど壺にはまる。だから適正な距離感を持つように指導される。こんなことがあった、カウンセリングをしてるが理解されないと言う、クライアントに。答えはクライアントの相談に一生懸命になり過ぎるからそうなるのではと。クライアントと同じ立場になってしまう、何とかせねばという焦りがそうさせるのかもしれない。ちょっと変わった本である。 

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犯罪心理学入門

200910・7

 事例が豊富である、しかし何らかの病理を抱えた事例が多く、これだから事件が起こるたびに精神障害者はとか、精神科に通院歴があるとか言われてしまう、あらぬ偏見がまかり通る。しかし我々は正常と異常の中間地帯で、どちらかに揺れながら生きている、犯罪起こしますと言いながら、瞬時に犯罪を起こすわけではなく、成育歴、環境、様々なプロセスを経て、犯罪を起こすかもしれない、しないかもしれない、そんな危うい中を我々は生きている。そのどこかでスイッチが入った時起きると思う。

 成育歴、家族関係が事例によって詳細に書かれてる、子育て中の親はもしかして、ひょとしてと不安になるだろう。おちゃんもそうである、しかし犯罪者になる条件をそろえたからと言って必ずなるものでもないし、全然問題のないように見える人が犯罪者になったり(しかしよく考えてみると問題のない人、問題のない家庭はないと思う)。犯罪へ走る方向へスイッチが入るか、幸運にもスイッチが入らずに過ごすかである。著者も偏見、誤解を持つことを無いようにと文中では書いているし、特に未成年の場合は再犯率は低いという。つまり未成年の場合通過儀礼的なものであれば、その時限りと言う事。しかし未成年自身が背負い切れない病理を抱えたとき、更生の道も遠く、また再犯と言う事になるらしい。

 読んでいるうちあまりにも精神的な病理を抱えた事例が多いので、精神的な病理を抱えた人だけという印象を持つと思う。しかし犯罪を起こす時正常な精神ではない、つまり犯罪に手を染めるという段階でもう精神が病んでいる。たとえば万引き、倫理観は欠如してるが、後は正常ですと言って精神的病理はないと言えないだろう。倫理観がないこと自体が病理である。読み進んでいくうちにおちゃんは、犯罪に手を出した段階でもう精神病理の世界に入ると考えた。だから犯罪は異常なのである。なぜこの点をくどく書くかと言うと、ほとんどが精神病理というより精神疾患を抱えた事例が多いので、精神疾患を持った人がひとhしぞん偏見を持たれるのではという気がするから。

 おちゃんのブログを読んでくれた人は分かると思うが、最近のおちゃんの本のレビューは家庭が崩壊すればいかに子供に悪影響を与えるか、いかにして家庭を維持していくことが子供にとって大事か、そんな本が多いことに気付いたと思う。当たり前のことだが、子供のために家庭を崩壊させないよう、何のかんのと家庭の文句を言っても、なくなったらどれだけ大事なものを失ったかわかる、しかしわかった時には遅い、壊れた家庭は戻らない。

 最後に著者は日本的犯罪の特徴として、幼少年期甘えたくても甘えられないため、その怒り、恨み、憤りが社会、他者に依存、甘えを求めた行為が日本の犯罪の特徴であり、今後は攻撃性と依存性が犯罪心理学のテーマになると言う。人は依存しながら生きている、完全に自立して行ける訳ではない、しかし依存は間違った方向に行けば恐ろしいものである。おちゃんが今一番怖いと思う病気は共依存症である・ >

非行心理学入門

2009・9・22

 初版昭和60年、今の目から見ると少々古い気もするが、戦後の少年非行の特徴、傾向を細かく分析してるので、少年非行の時代ごとの特徴を見るためには良い本だと思う。現在は昭和に直すと84年になる。本文から少し抜粋してみよう。ただ日本の場合大きな波があり、これはアメリカにはない特徴だという。

第1波(ピーク昭和26年)

①年長少年(18,19歳)の非行率が高かった。

②貧困家庭出身者が多かった

③財産犯が多かった

④学生生徒が占める割合が低かった

第2波(ピーク昭和39年)

①暴行・傷害・恐喝・強姦などの粗暴非行・攻撃的非行が多い

②交通犯罪の増加

③性非行の増加

④低年齢化の傾向

⑤睡眠薬遊び、遅れてシンナー・ボンド吸引のような逃避型非行の増加

第3波(昭和44年を谷とし昭和57年まで増加)

初版が昭和60年なので著者は第1波、第2波のように結論は出していないが特徴として、低年齢化、遊び型非行、初発型非行(占有物離脱横領、万引き、オートバイ盗み、自転車盗等)、非社会的非行(薬物乱用、怠学、怠業、登校拒否、社会と現実に背を向ける)。

 著者は昭和60年の時点で将来は予測できないと言いながら、薬物乱用(非社会的非行)、遊び型非行の増加をあげている。カプセル型人間(自己中心的、自閉的パーソナリテー)の増加。そして遊び型の非行の次に、非社会的非行が来るのではと推測してる。しかし現実として著者の指摘通りだし、おちゃんも最近の非行に関してはもともと神経症的なパーソナリテーを持った子どもの非行、犯罪が多くなった気がしてならない。20年以上前からNHKのラジオ教育相談を聞いてるが昨今、相談内容が精神的なものが多くなった。聞き始めたころは単純な非行、学校問題だった記憶がある。相談内容が変化したなと感じてる。最近の特徴として、何でもかんでもメンタル的なものとして考えるのもどうかと思う。もっとシンプルに考えてもいいと思う反面、やはりメンタル的なものとして考えた方が理解しやすい。説得力もある。

 今日のNHKのラジオで経済的にひっ迫している家庭に、子供の虐待が多いと流れた。親の不安定さが子供の虐待に向かっている、おちゃん的に考えると第1波の非行が今後多くなる気がする。親の不安定さの不満が子供に波及し、将来の非行に繋がるとすれば(今現在の社会構造・社会問題を考えれば)、もし何かあった時、親を責めたり、子供を責めても仕方がないと思う。貧困だから仕方がないという時代は終わった。貧困でも何とかなる社会ができれば良い、もっと、教育、福祉を実態に合ったものにしなければ。

 ところで最近一人の馬鹿がいて、戦後の貧乏と今の貧乏を比べた時、今の貧乏のほうが良いという。いつの時代でも貧乏が良いわけない。だから焼け野原の時代と今を一緒にされても困ると言い返した。自分の苦労話を美談のごとくしゃべる馬鹿がいるから、しなくてもいい辛抱までしてしまう人もいて、それで悩んでる人もいる。世の中してもいい辛抱としなくていい辛抱もある。話がそれた、ボヘミアンが大嫌いな話し方である。

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続心療内科

2009・8・10

 著者は日本にはじめて交流分析を紹介、この本の初版は昭和48年、その約10年前に九州大学医学部に心療内科を発足させた。内容文章表現は少し古いが、自律神経のアンバランスによって様々な病気を引き起こすこと、薬に頼りすぎること、薬の大量投与など、現代でも問題になっていることを30数年間から述べていた。と言うよりこの国では30数年たった今でも、現状が変わっていないのかもしれない。この点については「こうすれば病気は治る」の著者が現代において、述べていることと同じである。

 この本の内容は交流分析(エゴグラムと言った方が理解が早い)、その他精神療法、カウンセリング、自律訓練法など、今は割と馴染みのあることが述べられている。今はメンタルヘルスの重要性をだれでも理解するが30数年前は専門家、一部の人しか興味を持たなかっただろう。今はどこにでも心療内科があるが、どのようにしてでき、本来の心療内科とはどんなものだったか、知ってもらいたいからである。

 「親のボケに気づいたら」の著者も、心療内科は心理的な影響を受けやすい身体の病気と言っている、しかし現代は精神、神経科と心療内科の区別があいまいになってる、というより患者自身は同一視してる、本来は区別があった、この本を読むとそのあたりがはっきりする。メンタルヘルスという言葉が誤解を生んだのかもしれない。精神、神経という言葉を嫌がるから、メンタルヘルスなる言葉でぼかされてるが同じなのだが。

 内容は自己コントロール、交流分析、自律訓練法と多岐にわたってる、おちゃん的には内容テンコ盛りすぎる感があるが(だから逆に分かりづらい)、30年以上前の書かれた、著者のいってることは現代にも通じるので温故知新で読んでいただきたい。

 著者は心身医学の立場から宗教的治癒も否定はしていない、可能性もあるという。しかし注意点を3つあげている。(続心療内科から抜粋)にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
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1 信仰によって治る病気の多くは、神経症や機能的な身体病変と思われる。信仰を万能と考えるところに危険が伴う。

2 教祖,教会に対して強い依存状態ができる。治癒したように見えても、教会、教祖から離れることの不安が伴ない、離れることのできない状態になる。

3 信仰による治癒の実態が見落とされ、教祖に霊能があるように思い込み患者の人間的成長が妨げられ、迷信のとりこになう。

 なるほどと思う。今でも精神疾患に対する偏見は強い、時代が昇るほど偏見という色は強くなる。30年以上前はもっとだろうそれより前はもっと。だから著者の文章からは現代の精神科医が書く文章よりも、ヒューマ二ズム、啓蒙しようという空気を感じる。

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