健康不安社会を生きる
2010・5・23
人は健康と不健康(病的状態および病気を含めて)の間に揺れていると思う。絶対的な健康はあるえないと思う。身体、精神を含めると絶対的に健康であると言うことはおかしい。この揺れをホメオシスタス、恒常性、自然治癒力、言葉の使い方はおかしいが、不健康ならば、健康に近い状態へ持っていこうとする力を人は自然に持っている。
ところが最近は健康であらねばならない(健康に越した事はないが)と言う意識は、もう強迫神経症的になってる。健康診断のデータに一喜一憂。健康診断の近くに脂肪分の多い食事をしてるとコレステロール値は上がる、しかしその記憶がスコンと抜けると病気と騒ぐ。健康診断の時緊張したりするとデータも平常の時と違って出る。それを忘れて病気と騒ぐ。だからこの頃は医者の方でもあまり数値を気にしない人も出てきた。数値をあまりにも気にする患者が多くなてきたからかもしれない。逆に神経質になりすぎて、メンタル的な病理になられても困る(あまりにも無神経すぎても困るが、最近は思考力のバランス感覚の鈍い人が多くどうしても二者択一で考えるから、境界型というあいまいな存在は良いなと思う)。しかし精神科の医者に言わせると、身体の医者はデータを重要視すると言う、そうだろう人の心理、精神なんて数値化できないもの。人のありようは数値化できないよ。言語化、行動化は出来ても。
2003年の「健康増進法」をあげ、ある程度の数値目標は親切ではあるが、労働環境、社会環境に配慮が足らぬとある。自己管理の甘さもあるが、環境因子は個人ではどうにもならぬ、それを自己責任の求めるのはおかしいと。その通り。
「運動器の痛みとつきあう」の章は痛みは完全に治すと構えずにとあり、良い章である。本当に身体から来てるのか、老化による物なのか、心理的な物か、原因をつかんでからの治療だし、ある程度の痛みには付き合っていく事が大事とあると。この意見はおちゃんは整形外科の先生から聞いたし、整骨院も「仕方ねんだ、痛みと付き合うしかねんだ」と言う。ちゃんもばっちゃも痛くて苦しいとすぐ鎮静剤を使うが、この二人どちらかと言うとストレスが貯まりやすい。そして抜けにくい。だからある程度の心理的関与もある気がする。
しかし一番ページ数を割いてるのは「健康情報とつきあう」である。健康情報は膨大であるそれをどのように選択するか、情報に惑わされないためには、こちら側の知識武装、不安心理を巧みに突くので、そこをどのようすり抜けるかが書かれてる。整骨院に言わせると健康食品の情報は全部ウソだと決めてるから、健康食品は買わないそうだ。親が健康食品を買うと無駄な物を買ってと思うらしい。言説に惑わされない(こうである、そうであると言う、一括りにしてしまう、決めつける様な言い方)、疑う習慣等、もう探偵的。
今の社会は不安と言うが事実その通りであるが、周りでも不必要に不安をあおってる気がする。また日本人は不安に煽られやすい。不安をあおって健康、美容ビジネスも成り立ってる、不安を消すメリットを強調、しかしデメリットは流さない。しかし物事にはメリット、デメリットがある。河合隼雄ではないが結論、真ん中で考えましょう。
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