草を刈る娘
2013・4・11
『草を刈る娘』は小説を読んだ事はある、しかし映画があるとは。作者は弘前出身石坂洋二郎。おちゃんは石坂洋二郎が添え物みたいに評価されるのが(弘前において)頭にくる。戦後映画界、小説において多大なる功績があるながら、なぜ評価しないのか。太宰治ばかりで。整骨院も同じ考え方である。最近になってやっと陸褐南ガ再評価、この点は司馬遼太郎が『北のまほろば』で書いてある。人の成功を喜ばない、不幸を喜ぶ、津軽の足ひぱりだ。
なぜ買ったか、吉永小百合なんてどうでもいいし、日活の青春路線なんて、路線の最後の頃で小学校の低学年興味もないし、分かんない。ただ昭和35,6年ころのだけの風景を見たいから。まー、画面一面岩木山をバックにした位置から見た白神山脈のパノラマ。エンディングの風景は馬車に枯れ草を積んだ隊列が国吉、鳥井野の方面に降りていく(多分)。圧巻。
よくこれだけの馬車を集めた、津軽弁で「ただでねがったべの」、その馬車が懐かしい、枯れ草を積んだ馬車は見た事はないが、昭和の40年代初期は市内でも馬車に良く、砂、砂利を積んで歩いていた。軽トラ変わりだ。当然馬糞も落ちていた。中身はどうでもいい、ひたすら懐古趣味になりたくて買った。風景は素晴らしい、これは勧める。
昭和36年公開だから、昭和35年にロケをしたと考える。そしたら突然おちゃんの記憶は昭和35年にワープした。昭和35年は目屋ダムができ、どういうわけか、叔父と叔母に連れられてバスに揺られて目屋ダム見学と岩木山神社に行った。団体様だったと思う。朝早く起こされていった記憶がある。弘前から目屋ダム、国吉に入って岩木山神社で弘前に戻る。多分。
小百合さまと映画で夫婦役をした、坂東三津五郎、竹中直人は同じ年だから、35年当時は5歳で、日活の青春路線は無縁である、ただの看板ポスターを見てきれいなねーちゃんだなと見て(小百合さまを)、昔はポスターの脇に小さく写真の人物の名前が書いてあった、「アーこのねーちゃんは吉永小百合か」と記憶しただろう。女子高校生と5歳児では大人と子供である。渡辺謙はもと小さい赤ちゃんである。
この時期18世勘三郎はよく少女雑誌に出ていた。なぜか初舞台が桃太郎は知っている、多分少女雑誌『りぼん』で見た。昭和33,34年に初舞台だから、35年か36年に33年、34年の雑誌を読んだのだろう。ベビーギャングは18世と記憶に合った、、怪傑ゾロみたいなマスクをして、ピストルを持った男の子で、写真と吹き出しで構成された写真を漫画仕立てにした読み物であった。
ただ最近まで、気憶に残ってるだけで、分からなかった。そしたら映画「あっちゃんのベビーギャング」という映画で会うと分かった。答えが出た。18世イコール天才子役というイメージがある。確かシャボン玉ホリデーにも出ていた気がする、18世がスーツ姿で植木等と出ていたイスにちょこんと座って。おちゃんは幼稚園児の癖にクレージーキャッツが好きで、シャボン玉ホリーデーは毎週欠かさず見ていた。いまだにあのギャグを超えるものはないと思う。昭和36年から47年までほとんどみた。
映画のレビューを書くのがとんでもない方へ行ったが、中身はどうでもいい。元々日活の全盛時代の始まりから終わりはほんとの子供だから。しかし日活で一時代を気付いた女優、男優はすごい、いまだにビッグな雰囲気がある。
しかし昔は漫画の吹き出しにも漢字にはルビが振ってあり、映画の看板、ポスターには写真の人物の名前が小さく書かれていた。カナさえ読めれば、ガキでも大人の知識を仕入れられた。銭湯には必ず映画のポスターがあったし、問屋からは招待券として映画のチケットをもらった。小学校に行く途中には良くでかい映画の看板があった。よく眺めた。見ない癖に来た感じをしたものである。映画館の前に行けばスチール写真も貼ってあるから、あれはあれで面白かった。
映画の帰りはなぜかラーメン屋による。分からない、意味が。デパートは子供のパラダイス、ランチ食って、おもちゃを買って、月に一度だが。屋上で、ゲーム、乗り物。バス停の前にはパン屋があったからホットドッグを買った、電車の時は肉屋によって肉団子、うまかった。待ってる間も結構飽きなかった。欲しければ買ってくれた。弘前は地方都市ではあるが狭いので、生活するには不便を感じた事がなかった。今の方が不便、バスの便数は減る、スーパーは郊外、昔はあちこちに映画館、専門店、あったのに。病院もあったし、不便な時代になった。
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