諸々の本
2013・3・24
諸々と言って更新することが多くなった、なぜ?本は確かに読んでるがだいたい3,4冊同時進行に読むので、まず更新が遅い、内容を忘れる、ならば1冊集中。無理、何冊か同時進行の癖がついたし、気分でころころ変わるので
☆ロストケア
本の腰巻はマー買ってください的である、買った。ゥーーん、介護の内容お粗末、もっと突っ込んでほしかった、最初著者は介護の経験あるのかなと思った。あるらしいがそのあたりが感じられない。これが「母の遺産」では、著者が確実に介護の経験をしたと伝わるし、著者自身ももう介護はたくさんと。内容は要介護平均3・8の高齢者の連続大量殺人。高齢者身体ほとんど寝たきり、介護者精神的、肉体的、ボロボロ状態。大体要介護2を超えたあたりで在宅は無理になる。で、殺された家族は表向き悲しいが、裏は介護から解放されたのでほっとする。ここでその家族を鬼とか、人でなしというのは、言う方が現実を知らないだけ。現実はこんなものです。大体介護を数年もやると早く死んでくれが多い。ただ言わないだけ。
ここではこの殺人によって介護から救われた家族がある、しかし殺人である、介護は追いつめられると死んでほしいという気持ちになる、しかし実際は思うだけが多い。現実介護殺人もあるわけで、この殺人犯が果して悪魔なのか、それとも介護地獄から解放してくれる、救世主なのか。答えは保留のまま終わる。裁判では犯人は死刑になるが。最後の方で(後半部分はかなり読ませる、考えさせる内容である)、人は原罪があり、人はみな迷惑をかけて生きていると。ウ―ーーン、唸ってしまった。つまり人はこの自覚を持っていなけらば生きていく事は出来ないし、いつまでもきれい事で処理しようとか、正義とか悪とかくだらなことで悩むのである。そして肝心な事がおろそかになる。正義と悪,善と悪、この二極論は馬鹿の考えることで、世の中二極論では片付かないし、迷惑をかけて生きていく事は出来ない。誰も自分は迷惑をかけているという意識はない。しかし迷惑をかけて生きている、だからと言って迷惑を推奨してるわけではない、ここら辺をきちんと理解して欲しい。
ダライ・ラマの言う通り、人は一人で生きていく事は出来ないし、諸々に支えられ、関わり合って生きている、依存している。一人自立して生きてるわけではない。だから高齢になりお世話をしてもらう事は恥ずべきことでもないし、日々衰えていく限り仕方がないと思う。
世話をしてくれる人があってもなくても人はいずれ誰かの世話になる、しかし今までの日本は家族にもたれかかりすぎた、それが介護地獄を作る原因でもある。「日本の家族介護は呪いだ」とい言葉が出てくるがその通りである。本の中では介護保険の欠点を突くが、介護保険の事をどう言おうが、介護保険開始でどれだけ、救われたか。
介護保険ができて良かったという人は新しい介護の考え方にチェンジ出来た人、介護保険に対してグダグダと家族介護だという人はチェンジ出来てない。チェンジ出来ない所ほど介護地獄は起きやすい、余裕のある介護は出来ない。
『介護の世界って、ドロドロだよね』、「そうですね」、「はい」、「そう思います」、「良いとか悪いとか言うとね、全部飲めないと、区別つけてるとね」、そうなんです正論を振り回してると先に進めないわけ。でも正論も必要なんです。なぜと言えば、効率よく介護をすることもできるが、非人間的になる。それじゃ遺憾というわけで、介護で疲弊してる家族の為にもって分けで、介護保険がスタート。自己指示自己決定、利用者本位(現実は家族本位、介護者本位)という理念でスタート。確かに理念先行で、現実は後追い、でもね理念を持たないと理念がなければ、どうしても効率優先、モノ扱いになってしまうので、ブレーキとして、おまじないとして、利用者様優先とか何とかきれい事を言うのよ。このきれいと汚いをうまく使いわけが出来ないと、介護の世界はちと難しい。
☆非差別の食卓
この本よんだ衝撃は、「ロストケア」よりすごい。一言、簡単にソウルフードという言葉を使うなである。「ロストケア」を読んですごいとか、こんな桃かと思う人は安全地帯にいるから。安全地帯から外れた人は、現実はもっととか、こんなもんだと思うだろう。
フライドチキンは、奴隷の料理、白人が残した肉のついた骨からが始まり。ホルモンは牛を解体した後の臓物。調理の特徴としては大変手間がかかること。しかしそれしか手に入れる事ができなければ、試行錯誤を繰り返して、食べる事が出来るようにする。
またカロリーが高い料理だと重労働の体には良い。著者は中学生の時日本酒を飲みながら、父親の仕事を手伝い体が温かくなった。それで気がついたのは外で働く労働者が酒を飲む事。寒風の中外で働く事はきつい、辛い。体が冷えていく、勢い酒を飲んで温かくする。今はいろいろ保温のグッズがあるが、昔はせいぜい懐炉だ、手っ取り早いのは酒。
また、昔に比べて、露骨な表面だった差別はなくなったが、見えない差別があること。それはその国、その地域の人しか感じない物。ブラジルは差別がないと表向き言われてるが、どっこい見えない差別がある。
ネパールの編では今現在の差別が書かれてる、マー他の国に比べたら目に見える差別の範疇にはいるなと感じた。カーストが日常の生活の中で残っている、しかし昔に比べたらいくらか、いくらかである、ましかなと。
著者は非差別の食事に拘っている、だから格別意識して差別的な事をかいていない気がする。ただどうしても差別という事は避けて通ることは出来なので、淡々としかし突っ込んで書いてある。これが差別に主眼を置かれると、うんざりする、なぜ?それは自分の中にある、差別という心が動かされるから。
食の文化史からいろいろ考えさせられた。良い本だと思う。今一度自分の心の中の差別するという心を問ううてみた。差別はなくならないだろうし(差別をなくすこと自体無理、無くなると思ってる奴はおめでたい)、多分差別する心というより感情とその逆の感情を自分の中でどうやって折り合いをつけるかであろう。それは無知ではいけない、なぜそこで差別の歴史があるのか、なぜ起こるのか、きちんとした根拠を自分で調べて、それでも差別観があるのであれば、どこかで折り合いをつける。感情に流されてはいけないと思う。
人は感情の動物である、見たまま、聞いたままである。また差別する側、される側では抜き差しならない感情の歴史がある。言葉ではない、感覚、感情の世界。それをそのまた外の人間がいいとか、悪いとか言えるだろうか。もし言うのであれば、きちんと自分の中で折り合いをつけることである。
いつも言う言葉で、みんな笑うが『文句と考えるは馬鹿でも出来るの、馬鹿と違うのは行動できるかできないか』。しゃべってるだけでは物ごと片付きません。
以前社会福祉士のとこへ相談に(精神障害者で問題が起きそうだと心配で相談に行った時)、話がこんがらがって、いきなり「あなたは差別する心あるんですか?」、『はっ?』(自分の差別する心を問われた気がしてそのお瞬間)、「ありますよ」。
社会福祉士もびっくりしたろう、自分から出た言葉と反応で。正義、正論で通すとこんなことになる。自分は良い事をしてると錯覚起こしてる。
春日武人曰く、良い事だと言われると後ないんだよね。その通り。そしてこの手のタイプは燃え尽きる。良い事してるのになんで、悪く言われなきゃいけないのって。1回燃え尽きて這いあがらないと、介護福祉の世界は続かない。精神的にタフでないと、理想主義ではだめなのよ。
Aさんにはいい事でも、Bさんには必ずしもいいとは限らないように。「その利用者に合ったニーズを提供しましょう」なんです。またそれてしまった。
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