諸々の本 小寒に入って
2013・1・13
今年の雪は去年に続いてすごい、昭和30年、40年代並み。歩くのが怖い、ゆえに杖を突く、杖をついてると、足が悪いと思われるせいか、気を使ってくれる。しかし詐欺をしてる感じがするので、でこぼこ道、凍結の道、少し上り気味の道以外杖をたたむ。じん帯損傷をしてから雪道を歩くのが、しんどい、足首に負担がかかる、足が少しむくむ。で、整骨院に行くが、何病院に行く途中にあるのでいく、「まだ頑張ってらな、医者のしゃべる余命当てにならねはんでな」、その通りである、余命2カ月で前半飛ばし過ぎた、今のとこ落ち着いてるが、日毎低下はしてる。やはり、回復の見込みなしと告げられると、余命は約半年、やはりこっちが正しいなと思う。
ボヘミアンが
「わ、病院さ行く、でもこれが最後」、
しかし次の日
「バッチヤ、前より変わった?」
『去年よりな少し、でも見ても分かる、弱くなった』
「せばいかね、前に行った時もちょっと見たくなかった」
『変わった姿みたくない、元気なままの姿でいたい』
「うん」
ボロボロにかわ果てた姿を見たくないか、分かる、身内だからと言っていやな姿を最後まで、無理して見る必要はない。
☆青森県謎解き散歩
偏りのない内容である。『歴史、文学、民俗宗教、考古エトセトラ』、しかし全般の印象は歴史である。ネーちゃんの店で
『面白い、全般偏りない』
「面白いよ、呼んでみたけど、全般網羅してるし」
板碑に触れてるのがいい、津軽には多いし、目に触れてる人もいるが意外と「なんだべ」の世界。南部藩の誕生も良い、安藤昌益がなぜ南部藩に来たか。人物編では一戸兵衛が抜けている、この点は司馬遼太郎も指摘している。
表紙はのっけから太宰治とくる、いい加減太宰はやめろといいたい、どうしてこう自然主義風というか、私小説風というか、自分の身辺切り売り、ゴダク(ぐち)、グダメグ(ぐち、不平不満)の作風の作家を後生大事にするのか、分からない。
司馬遼太郎に言わせると、どちらかと言えば、屈折した人を好み、成功した人をよく言わない、俗に言う「津軽の足ふぱり」(足を引っ張る)、県外から来た人は大概『足引っ張られた』という。整骨院に言わせると、「フン、自分より上いれば、自分の馬鹿露呈するはんでよ」、ネーちゃんも「たんだしゃべるだけ、何もしねっきゃ」
ある先生に「南部って、津軽に比べて懐深い気がしない?」って聞いたら、「その通りですね」、その先生津軽人。実感するのは南部の人は津軽の人に比べて、懐深く、行動力あるよ。
☆読顔力
人相学見たいな事を期待したら外れ。精神鑑定もする精神科医の書いた本。入った知識、人は嘘をついたり、何か別な事を考える(心ここに非ず)の時は唇の右が上がる(見てる方にすれば左)。
しかし日本人は読顔力の力が落ちているという指摘はなるほど。以心伝心。単一民族であるから、あまり詳しく言わずとも了解できる、身内意識である。しかしこれは同じ価値観を持つという条件が付く。ところがこれは日本人(身内)には通じても、外国人(外部の人)には通じにくい理由で、もっと自己主張、アピールしなければと言われる。
人と話した時は話した内容より、姿、形が印象に残る。雰囲気、振るまい。だから言語を尽くしても分かってもらえない時がある。大体言語で伝わるのは20%から30%らしい。残りがしぐさ、振る舞い、外見、雰囲気、ノンバーバルコミニュケーション(非言語的言語)みたいなもの。しかしここの部分は、読顔力、以心伝心。日本人の特徴である、言わなくても通じるがプラスに転じる。というより日本人の持つ感性と言うべきか。
この感性が落ちてるという、空気が読めない、場の雰囲気が読めない。確か以心伝心はマイナスととらえれば、と得られるが、しかし大事な感性でもある。しかしもっと大事な事は各人が持つその人独自の違和感を大事にしろという。その人、その人によって違う違和感がある、他の人と比べて変かなと思う必要はない、自分だけの違和感を大事にするそれが自分を守る時もあるという。第六感、虫が好かない、生理的嫌悪、人によってこの感覚は違う。
つまり相手を主観的に見ない、客観的にみると同時に、内なる自分も主観的な自分から客観的な自分になることかな?
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