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2012年5月

終わり続ける世界のなかで

2012・5・16

 おちゃんがこの本を買った理由、「ノストラダムスの大予言」を見て、聞いて、その内容に取りつかれた少女(ほぼ恐怖、絶望のとりこ状態)。その大人になるまでの成長というか心の軌跡というんで買った。

 今考えてもあれほどはた迷惑な本はない、どれほどあの本のおかげで洗脳された若者がいたか。かくいうおちゃんもその一人。1973年「ノストラダムスの大予言」の第1冊目が出て、日本テレビでは「木曜スペシャル」で、UFO,ユリゲラー、超能力者、ノストラダムスとはなにか?とか。社会的には、人口爆発、小松左京の「日本沈没」、オイルショックと右を見ても左を見ても、将来、未来は絶望的であったが、今の世の中と比べてみるとまだましであったなと思う。ただ煽られていたと、とにかく未来に向かう健全なる青少年にはどれだけ、絶望という刷り込み、洗脳をしてくれたか。

おちゃんも高校生で、学校でも、帰りのバスでも、みんな「すげーナ、「これからどうなる?」なんて声がした。まーこの現象も一時的ではあったが、その分ワインの澱みたいに、未来の健全なる青少年ノ心、深く負の影響を残した。

 主人公の伊吹ちゃんは1969年生まれ、雑誌「ムー」でノストラダムスを知った事になってる。おちゃんより14歳下、しかしこの影響の幅が想像を超えて広いことである(年齢の)。「ノストラダムスの大予言」はダラダラと何冊も出版された(確か10冊以上は確実に出版されているはずだ)、あの不気味な表紙を、影響を受けやすい年齢に、これから未来のある健全なる青少年が見たら、不安、絶望を感じてその影響を持って当たり前。

 この辺りは小学校から中学校までの章に良く書かれている、伊吹ちゃんはほとんど精神状態がおかしくなるまで行ったが、同じような状態になった子供はたくさんいたと思う。おちゃんは伊吹ちゃんほどひどくはないが、本屋でも「ノストラダムスの大予言」は手にしない、「木曜スペシャル」も見ない(超常現象、預言、UFO)、ノストラダムスという字を見るだけで、ぞっとして恐怖であった(今だってノストラダムスとの肖像画を見ると恐怖)。てな具合でどれだけ影響が受けた子かいたか想像できると思う。

 大体子供は目から入る情報ノ影響は受けやすいし(場合によっては刷り込みになる、おちゃんは幼児の頃余りにリアルな鳥の絵を見て、本物の鳥を見ると気味が悪い、今もそうだ)、次に思春期の時期になると一方的に情報を流されると(それも真実らしく見せて、考えさせようしないで)、そのまま信じてしまう。人生を知らぬから信じて信じてしまう。

 思想改造がその例である。10代の兵士はどれだけ恐ろしいか、文化大革命の紅衛兵、ポルポト、ゲリラで証明済み。大東亜戦争の頃の少国民など、特攻隊に志願した少年など。若いからこそ疑う事もなく信じてしまう。天草四郎、ジャンヌ・ダルクみな10代。この年代はどうしても原理主義的な心理、精神になってしまう。だから怖い。

 枕が長くなった。なぜ?この部分を押さえておかないと伊吹ちゃんを理解出来ないと思うから。やっとこの葛藤(成長していろいろな経験をするが、冬のおばけみたいに、昔の頃を思い出すとノストラダムス関連の記憶が再生される)、振りはらおうとして、預言ではないと思っても、否定しても、ときどき世紀末の予言が顔を出す。

 小学5年生から、30歳までの一人の女子の心の軌跡を描いた小説。見た目はどこにでもいる平凡だけど、心の中は複雑な葛藤や経験、傷を持ってる。「人は好きな事しかしない、嫌いな事はしない」確かにその通り、しかしこれを肯定されたら世の中ざらざらする。逆にいい事をすれば良いのか、自分にとっていい事でも相手にとっていいことなのか、錯覚なのか、自己満足ではないのか?何が良くて、悪いのか?(おちゃんもよく分からない)。

 なんて事が延々書かれて、1999年、30歳になった時にある程度自分に折り合いをつけるところで終わる。まー自分はどうすればいいのか、自分探しの旅みたいなものである。

これに地下鉄サリン、阪神淡路の震災が絡む。大方の女子に起こる経験する心の成長記録みたいな感じがする、だから読後感はざらざらした感じ。梅雨時の曇りの日みたいな鬱陶しい、まじめが故の心の旅のような感じ。しかし見た目が地味だから心が地味ではないし、見た目が明るく晴れやかだから心がそうではない。この小説の登場人物を見ればわかる。

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戦場のエロイカ・シンフォニー

2012・5・11

 「日本を信じる」を読んでからドナルド・キーンに興味を持った、昔もキーン氏の本を読んだ、確か司馬遼太郎との対談集だと思うが。アメリカ海軍の将校として従軍、日本人捕虜の尋問、戦場に残った日本軍の文書の翻訳。

 反戦主義者でいながら、日本語をもっと勉強しようと海軍を志願したとは、陸軍とは日本語の授業のボリュームが違う。時代を考えればこの時代のアメリカは徴兵制であるから、反戦主義だろうがそんなことは関係なく軍隊に行くのが義務である。

 どういうわけか日本人捕虜の実態は著作物として刊行されている物は少ないし、声高に、別に声高に言うほどでもないが、日本軍がアメリカ、オランダの捕虜に虐待を加えた事は語られても、なぜか日本兵が捕虜になった事は語られている事は極端に少ない。

 だから日本人捕虜の事が詳しく?、語られていると想像してたら肩透かしを食らった。キーン氏の戦争に対する考え方、第2次世界大戦中のアメリカ国内の様子、政治など歴史的な内容が大半。具体的には捕虜の事は語られていない。あくまでもドナルド・キーンが第2次世界大戦に従軍した、懐古談、その時に感じた事、長い時間を経た今の第2次世界大戦に対するドナルド・キーンの評価だなと感じながら読んだ。

 しかし不思議なのはライシャワーは別として、ドナルド・キーン、サイデンステッカーは軍人として語学将校として従軍しながら、戦後日本文学の学者になり、日本をこよなく愛するようになったのはよく理解出来ない。しかしこの考え方が誤りなのだ、敵だからと言っていつまでも敵と思う考えがおかしいのである。

 この本の中でもキーン氏は中国がいまだに日本軍が行った残虐行為の場面を博物館に展示されている事、これではいつまでも憎悪の感情を残すだけであり、害はあっても益はないと。例として、ドイツとフランス、イギリスとフランスは敵国同士であったが今は、何の禍根はない。特にドイツとフランスの場合は、フランスはドイツに占領された、しかし今はどうだ、それも68年前最近のことである。ところが日本はどうだろう、いまだに戦争中の事で、責められている。日本の人口の半分以上が戦後生まれなのに今だ大東亜戦争の事で責められるのは、いやだ、気分が悪い。戦後生まれは関係ないもん。

 個人レベルでは憎悪の感情を持つ、持たないは自由だが、国レベルでは止めてもらいたい。歴史の内容になると歴史おたくおちゃんとしては長くなるので止める。読み方によっては日本人論としても読める。「謎」として戦前と戦後の日本人の豹変ぶり、「?」である、キーン氏も、同じ日本人としておちゃんも「?」、この「?」の回答は「日本辺境論」に書いてあるが。

 笑ったのは「昨日の戦地から」という本は全然売れなかった、キーン氏も売れなかったことを残念がるし、インタビュアーの小池氏も残念がる。キーン氏も自分が言いたい事を書いた本が売れない事を運命としてるが。小池氏が文化勲章をもらったでしょうと言うが。そんな物ではないだろうと思うが、やっぱり本音の部分は書いた本は売れて欲しいと思うよ。キーン氏も人の子よ。

この事をエビスのねーちゃんに話したら、大笑い「良い本は売れないし、どうでもいい本売れるし、売れる本がいい本とは限らないよ」、まーね。体にいい食べ物はおいしくないし、体に悪い食べ物はおいしい、整骨院曰く「なして体さ、悪い物、めーんだべな(どうして体に悪い物は旨いのだ)」、「頭さ、いい本売れねで、頭さ、いぐね本売れるんだべナ」

家族という意志

2012・5・5

 何を言いたいのか読んでいる間理解不能であった。しかし第4章以後は理解できた。文章は難解といより、回りくどく、何が言いたいと感じた。何度読み返したか。

 対幻想とはなんですか?最後まで分からない、無理してわかる必要もないと思う。だったら斎藤学の「夫婦という幻想」の方がずっとわかりやすい。何でわかりやすい物をこうもまた難しく考えるのだ?とも思った。

 第4章は著者の両親の介護の様子を著者の感じ方、考え、現状を淡々と描かれている。ここで評価する点は「許容の限界点」という言葉で、限界点の範囲内であれば認知症の親を理解できる(というより了解という言葉がいいかもしれない)、しかし限界点を超えれば了解不能である。凡人の言葉でいえば、お手上げである。にっちもさっちも、家族介護の限界である。

 もうこの段階になれば「ある」の存在であり「あるがまま」、専門職にお任せの段階である。子の立場でいえばこれでいいのかと葛藤する。ヘタに家族間介護をすれば家族崩壊である。しかし著者は自分自身の内なる自己本位主義的思考で及び腰になる事に悩んでいるようだ。

 自己本位主義志向に対して否定的な思考がありながら、自分自身の自己本位主義的な思考で親を施設に入れた事に対する悩みが手に取る様に分かる。しかし大方がこんなものである。介護特に在宅に限界がある以上(限界は家族が決めるものであり、どこからと線引きは出来ない)、自己本位主義的思考に陥らないようにしたいと思えば、最後まで在宅で頑張るしかない。精神的にどこまで持つか、すべて認知症の重篤になった状態を受けいれなけらばできない。無理だと思う。

 本の腰巻に「一緒の誰かがいれば、一人、生きられる」、果たしでそうだろうか?この言葉は本に最後に出てくる、しかし一緒の誰かとは著者の中に存在するものであり、具体的な人ではない。確かに人生の最終ステージに立てばそれでもいいかもしれない。もっと若い世代はやはり具体的でなければと思う。

 どうすればいいか?人は一人では生きる事が出来ないだから、人は人を求める、理解出来ないと分かっていても、理解しようとする。絶望、希望、挫折の繰り返しでいい、しかし人生と長い時間で見れば、誰か彼か繋がる人は出来る、出来ると信じた方がいい。

 しかし介護の事を書いていながら、参考文献の中に介護の文献は1冊しかない。不思議。ひょっとして生の介護の問題は素通りしたいのではと思う。見たくないのかなとも感じる。というより今の自分の考えを理屈で何とか乗り越えようとして、苦心惨澹してるようだ。家族問題なんて理屈で割り切って解決できるものではないと、あるがままをあるがままで受け入れるしかない、しかし受け入れられないかもしれない、なるようにしかならない。

 しかしなるようになるでは困るから、悩むのである。しかし悩む事は価値のあることでもある。悩みを放置知り人よりはずっと良い。

 

愛着障害

2012・5・3
 

 更新できなかったのは介護疲れ、まさか自分でなりとは思わなかった。去年あたりからバランスを崩し始めたが、今はだいぶバランスを崩してるなと感じる。意欲気力がない、なんか何をするにも面倒である。しかしそっちの方向へ行けばどうなるか分かっているから、何とかやること可能な事はやってバランスを保ってる。視点を別な方へ切り替えるようにしてる。

ところで「愛着障害」、いい本である。今まで発達障害にばかり目が行っていたが(一種発達障害がブームみたいなところがある)、その前に愛着障害に目をやるべきだなと読んで感じた。ただし現在3歳前後の子供を抱えて、離婚をした人には刺激は多すぎるかもしれない。

 子どもにとって両親、特に母親は安全基地である(必ず親でなくても良い、慈愛という気持ちがあれば誰でもいいと思う)、愛着形成の臨界期が1歳6カ月、それ以降は愛着形成がうまく行かない、特に2歳以降養子に出されると中々うまく愛着形成いかない。この期間にこの人といれば絶対安心、安全という事が体感され愛着関係が確立されねばならない。

 ところがこの期間に、虐待、ネグレクト、離別、死亡、保育者の数度の交替などがあれば、愛着関係が確立され難く、生涯に渡って愛着障害に苦しむことになる。また3歳までの期間は前頭葉眼禍基底核の形成期であり、この時期までに絶対的な愛着関係が形成されなければ、非行を含む反社会的な行動をとりやすくなるという。情動のコントロールをうまくとる事が出来ない、刹那的な人となる可能性が高い。

 つまり「三つ子の魂百までも」、「氏より育ち」である。愛着障害で苦しんだ一に、夏目漱石、川端康成、谷崎潤一郎、ビル・クリントン、ジャン・ジャネ、エリクソン錚々たる人物である、特に夏目漱石は詳しく取り上げている。苦しみを乗り越えたか、本人は自覚してたかそれは分からないが、すぐれた作品、研究をして後世の人々に影響を与えたのは確かである。ここら辺は病跡学を読むような感じがする。

 しかし愛着障害が一生引きずるにしても安全基地が見つければラッキーである。著者は愛着障害の人は長い旅、放浪、家出を繰り返すという。数度の離婚、再婚。人生の旅とでも言うのだろうか。最後の章で愛着障害の克服法が書いてある。中々感動的である。チェックリストも載っている。

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