無力感は狂いのはじまり
2011.11.30
今年もあと1カ月、今年は2月までおとなしくしていたが、その後はバタバタ、おとなしくしてない、おとなしく出来ない、してられない。
今年は本当にブログの更新してなかった、これでいいのだろうか?、良いわけねーだろ。
宣言する、もう良い人、善人辞めた、辞める以前になろうとする無駄な努力、精神的に参るだけ、こんなあほらしい事、やーめた。エビスのねーちゃん「私、良い人辞めた、良い人じゃない」、周りでもいい人辞めたら楽になった、残りの人生お気楽、ならば辞めます。
この本は一気に読める、笑った、笑った、出版コードギリギリ?なわけねーだろ、確かに原理主義的超まじめ(ただの融通のきかない石頭、職場でいえば、ただのうっとうしい馬鹿)、違うというだろう。
低値安定、良い言葉、つまり落ちるだけ、落ちてその場で安住する事。気力、意欲、行動力なし、ただボヤーっと生きてるだけ。無気力の塊。
世の中のキレィ事ばかりじゃないのに、ひたすらきれい事を願う、きれい事で生きようとして、その矛盾に気づかない馬鹿。その馬鹿を利用してひたすら、きれい事を垂れる偽善者。
その馬鹿に、世の中の偽善を知れ、世の中の答えは○か×だけじゃない、○と×どちらかを選ぶとき物すごい葛藤がある、その葛藤をしろ。その経験が大事と。○か×で迷ったらそのままにしとけばいい。どうにかこうにかしてけりをつけようとするからおかしくなる、時間が経てばそれなりに。つまり、時熟、時の氏神。△でもいい。
葛藤を経験することは人として幅が広がる。○は○の経験、×は×の経験。経験は素晴らしい。経験に価値とか評価をしてはいけなと思う、原則。本人が価値、評価をするのはまだ良い、他人はするな他人の人生にケチはつけられない。
無気力は誰でも経験する、限界を知らないから、ところが限界、壁にぶつかる、どうにもならない事が起きるとガクンとエネルギーが落ちる。そこから無気力。問題はそこからいかに脱出するか。そのまま低値安定で、無気力、思考停止、行動しないままでいるか、抜け出し何とかするか。
その決定的な違いは問題に対して、現実に対して、本気で、覚悟を決めて向き合うか、向き合わないかである。向き合わないと低値安定、ただダラダラ生きる。逃げの人生である。
実際今の世の中自分で考えない馬鹿が多い、思考停止。振り回されている、情報に。特にきれい事、偽善を垂れる輩に振り回されている。あまりにもマニュアル化され過ぎた思考、モデル。その中に自分を置いた時違和感を感じたらそれを大事に。違和感を持つことは変ではない。違和感を持つ自分を変と思い、違和感を無視してはいけない。違和感が自分の感性である。
だいたい自分の違和感を言語化できれば、気づけばいい。それを無視したり、言語化出来ない、感じないのはおかしい。
人は限界の中で生き、人生に正解、不正解はない、正解を求めてひたする走り続けるか、不正解だと思い走ることを止めるか、この二つしかないと考えること自体クレイジー。
笑いながら読んだ、しかし内容は深い。「あっと驚くためゴロー、うん?」て感じ。
この考えは余裕のある人間の言う事だ、余裕がない人間はどうすればいいんだという声が出てきそうだ。しかし余裕は自分で作る者。葛藤、矛盾、苦しみの経験をして、学び、求めて、掴むもの。そんなこともせず、安易にドスンと無気力な世界に落ちることでいいのだろうか?確かに余裕は黙っても出来るだろうが、真の余裕ではない、ただ暇を持て余してるだけ。
人は限界の中で生きている、限界を知りその中でどのように生きるかである。
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