アホの壁
2011・6・26
この頃筒井康隆大先生の本を読む。今大いに後悔、反省してるのは筒井康隆大先生の本を全部、古本屋に売った事。エビスのねーちゃんに言わせるともったいないである。
30年昔に筒井作品を読んだ時は大いに笑った。しかし今は笑えない、なぜなら筒井作品の表面しか理解してなかったから。ほとんど差別用語、人を罵倒をする表現に、狂気の世界に溜飲を下げて笑っていただけ。
「人間は考えるアホである」パスカルの「人間は考える葦である」のもじりと思うが。
この本を読んでよかったと思う。人は簡単にアホの壁を超える事が可能で、誰もがアホになる。自分がアホであると言う前提で、と言うよりアホにもなると時によって、その自覚が必要である、自分を賢いと思って生きる奴はアホである。と言うより、脳天気、無神経であるなーと。そして周囲に大いにひんしゅくを買う、混乱させる、全くの無自覚、
著者は俗流心理学、俗流精神分析、俗流科学を以て考えていくしかないと書いているが、どうして、どうして、あのアホ、このアホ、アホのオンパレード。分析が鋭い。当を得ている。
昔の筒井作品は差別用語、罵倒、狂気、どたばた、しかも表面しか理解しない自称良識派にはとっては許せないだろう。
しかし筒井氏の深い人間観察、人間分析を知ると、誰もが狂気の世界、差別してしまう心理、罵倒したい心理を持っている。
そんなことをしないのは、知性と深い人間理解である。人は常に深い理解と知性を持ち続けけることは可能か?不可能。誰もが常にいとも簡単にアホの壁を超え、アホになる。
自分は絶対アホにならないと言う人はもうアホになっていると思う。アホにならないためにする事、他人のアホを反面教師にする事。と、常に自分で自分にアホかどうか、自己チェック、可能か?不可能。この世に数えきれないアホがある限り、自分があほにならないと言う考えは成立しない。
自覚のないアホほど怖い物はない。自分がアホと思うなら、そのアホを自己受容し、自分のアホを分析する、自分のアホから逃げない。自分もアホになると言う自覚。
「どんなアホを書いてるのですか?」と聞くアホがあるだろう。本を買うと言う行動をすれば良い。行動もせず、人に聞いて半可通を気取るのは、アホである。
もし自分がアホではないと思い行動する、過度の緊張、ストレスを感じる。どこまでアホでない状態でいられるか、想像するだけで疲れる。自分のアホを認めた方が楽。
しかし認めたくない部分もあるし、やはり「人間は考えるアホである」が正しい。
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