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2011年4月

青春の蹉跌 私が棄てた女

2011・4・30

 「青春の蹉跌」、「私が棄てた女」は20代の頃読んで、あまりにも男の理不尽さに腹が立った記憶がある。しかし捨てられる女も女で腹が立ち、馬鹿な女、愚かな女と腹が立った。

 馬鹿な女、愚かな女になる者かと思って、女なりの打算を立て、男に警戒したおかげで、結婚が遅れた。まー馬鹿女になるくらいなら一生独身もいいだろうと考えた時もある。

 しかしよく考えてみると独身でいる女は昔から、結婚を打算的に考えるか、男に依存し過ぎる女である。ハッキリ言って不幸である。その不幸を自覚せず、損得勘定のし過ぎか、損得勘定を全くしない、両局で生きる女である。

 結婚しないよりはした方が良い、子供はあった方が良い、結婚は妥協の産物と言うがその通りである。お互いが欠点に折り合いが付けられれば離婚はしないし、五分と五部を貫ければなお結構。一方的に我慢しない、腹も立つが認めるところは認める(これが難しい、どうしても夫婦でお互い主導権の奪い合いが出る)。

 この小説の共通項、男は貧しく上昇志向が強い大学生。性欲を満たす手段として女を利用するが棄てる。結婚対象の女性は別(家が経済的に裕福、それに見合った美しい女)。捨てられる女の共通項、父親が再婚して継母と折り合いが悪い、当然父親とも。自分は家にいる必要はないと思うか、家を出ている。経済的にも裕福でないか、途中で貧乏になる。性格極めて依存性が強く、自分で思考しない。男から見れば頭の緩い女性として描かれている。

 ストーリーの共通項、結婚の対象とする女とセックスの対象となる女は別物と考える男、セックスをした後嫌悪感を持ちながらも関係続ける。何とか関係を終わらせたい。しかし後ろめたさを感じながらも、合理的に振る舞おうとする、エゴイストとして振る舞おうとする。つまり本当の自分を見ようとしない、目の前の出世、上昇志向を優先させようとする、しかし本心(女に対する憐憫、愛情ではない憐憫である)は見え隠れする。本当のエゴイストになりきれない男の哀れさがある。女の方からコンタクトをとるが、男からはコンタクトはとらない、男は無視を続ける、女の方の一方的な愛情である。最後の方では「青春の蹉跌」では登美子は主人公の賢一郎に殺される。「私が棄てた女」では森田ミツは交通事故で死ぬ。

 両作品の主人公の男は、婚約が決まると捨てる女の存在が、婚約者に知られはしないかと焦る。社会を知らぬ、傲慢な若者の人生設計が狂おうとする。人生お前らが思うようぬ行くわけないぞと言うように。

 「青春の蹉跌」は映画で見た。その後原作を読む。ショーケンの主人公はちょっと小説のイメージから離れ過ぎの感じがした。桃井かおりの登美子はいい、康子の壇ふみはデビュー直後のせいか野暮ったい感じがした。

 「私が棄てた女」も映画化されているが見た事はない。

 両作品は共通項が多いが決定的に違うには、「私が棄てた女」の森田ミツは徹底して与える女であり(聖女のイメージとして書かれているらしいが共依存症のアダルトチルドレンとしか見えない気がする)、「青春の蹉跌」の登美子は妊娠をして賢一郎に結婚を迫るが、賢一郎の子ではない。その事実を知らず、自分の子がこの世に存在されては困るがゆえに、賢一郎は登美子を殺す。魔性の女である。

 何が言いたいか、分からない、混乱してきた。人は徹底したエゴイストにはなれない、なったつもりでも、憐憫、情が少しでもあれば(意識しなくとも、心の隙と言っていいだろう)、人生設計は狂う。エゴイストの振りは無理がある、出来ない、欲張ってはいけないのである。人生は計算通りいかない。

 もし徹底したエゴイストがあるとすれば、人格障害だろう、人を自分の利得に利用して、いらなくなれば捨てると言う。それも計算しつくして、ほとんど犯罪である。

 

本を読む

2011・4・23

 大震災が起きてから考える事が多く、ブログの更新は出来なかった。本も読んでるが考えがまとまらず、なかなか書くと言う決心がつかなかった。震災後の情報源はほとんどラジオ、新聞。テレビはほとんど見ない。

 考えた事、介護、労働(労務)、教育、医療、社会の考え方は今後変わっていく。今までの考え方、価値観は役に立たない。またこれほど、精神的、心理的な問題に対して、我慢しない事、困った事があれば相談するよう、声高に言う事は今までなかった。それだけ人に対してダメージをものすごく与えた災害である。

 つまり我慢は美徳ではない事、何でもかんでも我慢すれば良いと言う物ではない。辛い時、苦しい時は我慢する必要はない。辛い時、苦しい時は、辛いし、苦しい。話す、聞いてもらう、相手を選んで。聞いてくれる場所、人のところへ行く。世の中にはしていい我慢、しては良くない我慢がある、今までは全部ひっくるめて我慢が美徳であった、今後は違う。辛い時、苦しい時は、本当の気持ちを声に出せば良い、我儘ではない、わがままと言う方がおかしい。

 異常な事態の中では、おかしくなっても不思議ではない、逆におかしくならない方がおかしい。精神科にかかる事、カウンセリングを受ける事、相談援助、支援を受ける事に対しての考え方の敷居が低くなっていくだろう。偏見も少なくなる。恥ずべき事でもない。

霊長類南へ

 震災直後すぐ読んだ、講談社文庫昭和53年度版、今では絶版。もう30年以上前に買って、こんな事は起こるわけない、ガハガハと笑って読んだ。中国がミサイルのボタンを間違って押し、核戦争になり世界中が全滅、日本では忍び寄る放射能の影響を恐れ、南へと逃げる。車の大渋滞、生きるために手段を選ばず、人類の最後だとばかりに不安の裏返しの暴力、乱痴気騒ぎ。

 ところが現実に起きた。小説は核戦争であるが、東京がパニック状態になると言う現実が、絵空事ではないと言う現実に今立たされた。現実は小説のように狂気、人間の本性丸だし、大パニックにならないだろうが。しかし妙に今回はリアルな感覚を持って読んだ。もし災害が起こったとしても、この小説のような狂気に近い現実は起きてほしくないと。

 しかし異常な環境に人は置かれると、精神が錯乱、生き延びるために手段選ばず、何をするか分からない。特に不意打ちを食らうような災害、事故、事件。不安と恐怖は人をむしばむ。人間の弱さである。それを筒井康隆大先生は、これでもか、これでもかと書く。人間の愚かさ、弱さを良く見ろと言わんばかりに。

日本以外全部沈没

 以前から読みたかった、エビスのねーちゃんに注文、大震災の後だからすぐ来ないだろう、配達も遅れてるし、週刊ジャンプも休刊だし。しかし意外に早くきた。小松左京の「日本沈没」のパロディー、出るは、出るは、アラン・ドロン、キッシンジャー・毛沢東、周恩来、フランク・シナトラ、日本以外全部で、世界中の元首、有名俳優、女優、歌手が日本に来た。最初はちやほやされたが、いつの間にかごみ扱い。読んでる間にエリザベス・テイラーが死んだ、ちょっとびっくり。しかし登場人物に注釈がついていたのは驚いた、もうそんな時代なんだ、おちゃんにとっては日々のニュース、テレビ、映画でおなじみだが、同じではない世代が増えたんだ。日本以外全部沈没と言っても、最後には停電、そして日本も沈む。

 他作品「日本列島七曲り」、ハイジャックしたが相手にされない。。

「新宿祭り」、学生運動が祭りになる。      

「人類の大不調和」、大阪万博「人類の調和と進歩」、しかし世界はベトナム戦争のソンミ村の大虐殺、ビアフラの飢餓難民、現実と理想のギャップ。万博へのいじリか?

「ワイド仇討」、時代が江戸から明治に移っても仇討ち、時の流れから取り残されて、やりたくもないのに、家の為の仇討ち、明治のマスコミに利用され仇討ちをしたものの、最後はぐちゃぐちゃ何のための仇討ちか。

 何十年ぶりで筒井ワールドにハマる。笑った、おちゃんのような昭和の1960年代から1970年代の事件を知ってる者にはノスタルジーと、それを狂気、乱舞、いじる作風が懐かしい。一見ドタバタ、しかし皮肉と、警告、警鐘と言う毒がある。昔は何も気づかずガハガハト笑ったが、今読むとぞっとする。パニックを起こし、前後不覚になると、ひたすら狂気と恐怖と化すのだ人は。冷静、現実をしかと見よ。

 

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