演歌は国境を越えた
2011・3・31
震災この方いろいろ考える事が多かった。この国の形はどうなるのだろうとか、今の日本に知の巨人はあるのだろうか、もし司馬遼太郎が生きていればなんと言うだろうか?井上やすしが生きていればなんと言うだろうか?日本と言う国、日本人に対してなんと言うだろうか?分からない、しかし道標になる何かを言うだろう。
五木寛之は何か言うと思う、しかし宗教臭いか、でも歴史的観点では何か言うだろう、言って欲しい。今この国の民は揺れている。何かしたいしなければ、強迫観念症的な感じがする。何も出来ない自分を責める様な声もある、淡々と自分が出来る事をすればいい。あまりにも善人になりすぎる人が異様に多い、善人になるなとは言わないが、善人になりすぎるな、なぜ?
善人に溺れ過ぎて、自分に自分で酔ってしまう、一方的な援助になる、そんなことされたらいい迷惑である、善意の押し売りはいけない。支援を受ける人は十分傷ついてる、かわいそうだから、困ってるから、ついついやりすぎて、支援を受ける人の負担にならないようにしてほしい。自然にさりげなく。
出ました、ジェロ君親子3代記。と言うより女3代記である。しかし強い女性たち、それも半端じゃない。情の濃い親子だなと思う、ぶつかり合って、けんかして、離れたりくっついたり。しかしこれも親子だから、女同士だから、葛藤があっても離れたり、くっつく事が出来る。男ならたぶん、縁切り寺である。
またハルさん(たあやんの母)は晴美さんとたあやんと別れてひとり、晴美さんもエリザベスサンダースホームに短期間入所、たあやんもハルさん、晴美さんとも別れてアメリカへ。親子がバラバラになって独りぼっちになる事を経験している。どうしようもない寂しさ、一人になった、一人にされたと思うが、この親子は心で繋がっていたと思う。
母と娘の喧嘩はすさまじい、お互い思いやる気持ちが強いほどすさまじい。もうそれには圧倒される。特にハルさんの強さはすごい。母としての強さとたくましさである。一人娘と結婚して、その母親と交通が出来るように、上司に日本勤務を願うレオナルドさん(ジェロ君の祖父)も、良き婿殿である。
また、徹底して日本語の歌詞の意味に拘るジェロ君はすごい。頑固である。津軽弁で言えば、「いいわげものだが、かだくらだな(良い青年だが、頑固だ)」、日本語の意味を、解釈を完全に体で吸収、消化しているのだろう。日本人以上に細やかな感性。そこらあたりが、感動を与えるのだろう。心のひだにしみこんでいく、メッセージ性があると言うか。
ジェロ君の「かだくら」は松山ケンイチと似ている。徹底した自分の感性の拘り、なんと言われようが自分を貫く姿勢。流されない、流されたくない、である。これは出来る様で出来るものんでない。特の横並び傾向の強い日本の社会では。
また自分の人生の設計図をある程度描いて、食いっぱぐれのないようにしているのが、日本人の演歌歌手と違うところ。苦節何年を考えない所が良い、ある程度見切りをつけるところが良い。人生見切りも必要である。だから全力投球できるかも。
しかし、晴美さんはすごい。今まで見たくない、思い出したくない過去を、見ようとしている。きちんと過去を見ようとしている、中々出来るものではない。心の整理が出来たのだろう。
この本は一日で読んでしまった。面白いし、女同士の親子のすさまじさ、情の濃さ(女同士の)、特に率直に、母親、祖母、自分を語る晴美さんは素晴らしい。ハッキリ言えば、ジェロ君はおまけみたいで、やはり女3代記。

にほんブログ村
最近のコメント