文豪は、みんなうつ
2010.10.28
面白い一気に読んだ。作家10人が載ってるが、どの作家も精神疾患を抱えてると言われていたが、扱う人によって微妙に違うのがそこがまた面白い。今回もまた精神科医と言う事で、多いの興味を持って読んだ。しかし精神科医はいろんな事をするもんだ、いろんなことについて書くもんだなと改めて感じた。
嵐山孝三郎の「追悼の達人」に書かれているものと全然違う、マー「追悼の達人」はいろいろな本から資料を集めて書いたものだが、興味本位の部分もあるが、この本は作家自身の身近な人々が書いた本をもとに、精神科医が診断するように書いてあるなーと感じた。
この中で島田清次郎と言う作家は知らなかった。一番悲劇的な作家ではないかと思う。天才はある意味不幸である、それを地で言った人ではないか。自分はいったい何者であるか、それを見ようとせず(多分見るのが怖い?)、無理に傲慢ぶって見たり、本気で傲慢になったり、結局は天才作家ともてはやされて、利用価値がなくなれば相手にされない。もっともその原因は島田清次郎自身にあるが。その自分の悲劇的な部分に気がつかなかったのが一番の悲劇。
夏目漱石では「坊っちゃん」の主人公が学校で宿直の時、天井からの大きな物音で、生徒たちの部屋に載り込んでいくシーンが漱石自身の妄想であるとの指摘はびっくりした。温泉団子屋、そば屋へ坊ちゃんが行った事は筒抜けになっている。確かに漱石の妄想だとしても、生徒のせいにして、読者にねちこい生徒だなと思わせるあたりはすごい。妄想を逆手にとって小説にするんだから、ある意味すごい。
谷崎潤一郎が不安神経症とはこれもびっくり。谷崎の「陰翳礼讃」を読んだ時、谷崎自身はすごい短期だなと感じた、写真で見ても短気な感じがする。確かこの作品の中では谷崎自身、体が火照りやすいと書いていた。それと女の手足に執着するタイプであると「細雪」を読んだ時感じた。見合いの条件として手足のきれいな女性とか、雪子と妙子の爪を切るシーンで手足の表現、それ以外の小説出を読んだ時、やたら女の手足に拘るなと感じた。
川端康成は「追悼の達人」ではそれこそ追悼の達人であるが、「文豪は、みんなうつ」ではかなり不気味な感じがした。川端の別な面を見た気がする。これで今東光と大親友なんだから少々理解出来ない。
てな具合で書けばきりがないので終わる。しかし戦前はある意味悩むとか、苦しむとか、小説家にとっては必要なもので、一種自分を自分で特別にしようと言ういやらしい部分も見え隠れする。苦しむことに快感を感じてると言う気がしないでもない。もし今の時代にタイムスリップしてきて、カウンセリングしたり、薬で楽になって、安定しますなんて、言ったらどういう顔をするだろう?
その気になるのは、夏目漱石、谷崎潤一郎くらいで、後は苦しむ事に快感、生きがい感じて楽になることを拒否すると思う。何となく。
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