毒舌身の上相談
2010・4・25
高校の時担任から聞いた話、今東光の両親は弘前のロミオとジュリエットであると。今回この本で森鴎外の「渋江抽斎伝」の資料を今東光の伯父から提供を受けていたらしい、どおりで弘前の町名が詳しく細かく書いてあるなと感じた。いくら渋江抽斎の子孫が東京で暮らしていてもここまで詳しく町名を覚えているのかなという疑問は前からあった。
今東光は河内で暮らしていて、河内は原大阪人というがバサマに言わせると河内は田舎である。船場の人間にとっては河内弁は田舎言葉であるらしい。確かに聞いてると下品という感じがしないでもない。谷崎潤一郎が「細雪」を書く時、船場言葉を松子夫人に指導を求めた。所詮書き言葉ではあるが、バサマの言葉を思い出してみるとうなずく部分はある。津軽人も排他的なところもあるが、大阪人も排他的である。「細雪」でも十分感じるし、バサマを見ていてもそう感じていた。
おちゃんの今東光のイメージは毒舌爺さんである。反対に弟の今日出海は物静かな紳士と言う感じ。同じ兄弟とは思えない。ところで「毒舌身の上相談」1977年に刊行された本を新たに文庫版にしたもの。と言うことは相談していた時代は昭和50年前後かな。答えは相当過激であるが、相談者もどこかずれてるというか今の時代で考えれば相談する相手を間違えてる、相談者自体がおかしいなと感じる。変態的な内容、極端な小心者、極端な自信家、中間はないという感じ。
今東光の回答をもらってどんな感じだったのだろう。今だったら相談する前に犯罪になってると思う内容もある。自信家はよほど嫌いらしくかなり手厳しい、しかし運の悪い人と言うかかわいそうな人には優しい。心底優しい、世の中はきれい事ではいかないと。偽善的ではない優しさ、良い事もあり、悪い事もあるそれが世の中であると。良いことばっかり言う人間は信用できない、偽善である。良い事ばかりでは暮らしていけない、良い事ばかり考えると生き辛い。ならば要領よく生きるとすればこの罰あたりである。
言いたい事を言うしかしなかなか出来ないなぜ、良い人になろうとするから、世間の評価を気にするから。しかしこれを実践すると生き辛い。しかし世間を気にせず自由に生きることができるか、可能ではある。しかし極端に走ると犯罪、危ない人、世間と孤立して生きるかである。ならばどうすればいいか、精神のバランスである、絶妙の。真面目な人は分からないかもしれないが、これが人生。必要悪と言う言葉があるだろう。世の中良い事ばかりが通用するとは限らない。矛盾を感じるかもしれないが人生とはそんなもの、でも生きてみないと分からない、考えただけでは分からないよである。
今東光の回答を読んでるとそんな感じがする。そこを流れてるのは優しさ、深い人間理解、しかし優しくない者にはこの罰あたりである。おちゃんは最近感じるのはバランス感覚が退化した人間がなんと多いことか。良いと言えばそこだけで行動、悪いと言えば拒否したり、自分で考えようとしない。責任をとろうとしない、責任を相手に転嫁する。AかBかの二者択一の欧米流の思考のせいかもしれないが、それは良いとこ取りであって(都合の良いように解釈してる)、真の意味の二者択一ではない。河合隼雄、加賀乙彦、池見酉次郎も言ってる、日本には欧米流の思考は合わないと。昔流の良い意味でのいい加減、中途半端、どうにかなるという思考をする人が少なくなったからだと思う。
中途半端、いい加減だめですか?人の世はこういうものだと知りたい人には宜しいと思います。 >
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