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2010年3月

ローマの休日

2010・3・29

 もう奇跡と言うしかない、昭和38年「りぼん」の付録に別冊として付いてきた本を読めるとは、その時おちゃんは小学校2年。一読したがほとんど記憶違いがない。47年ぶりに読んだがその時の絵柄をほとんど記憶されており自分ながら驚いてる。多分面白くて何度も読んだので記憶が鮮明なのだろう。しかし古い記憶ほど脳に蓄積され、新しい記憶は蓄積されにくいと言うがなるほどと感じた。「はるかなる風と光」を読んだのが20歳代、読んだことは記憶してるが細かい事はほとんど記憶に残ってない。

 しかし小学校の頃読んで感動して繰り返し読んだ「ローマの休日」、「リンゴの並木道」の記憶は鮮明である。前者は小学2年、後者は小学4年である。自分ながら小学校の頃の記憶がこれほど鮮明に残ってるとはびっくりである。

 確か本の表紙は内藤洋子であった、この時代「りぼん」は付録に必ずマンガがつき表紙はほとんど内藤洋子の一人写真、漫画のストーリーのイメージに合った写真であった。映画で「ローマの休日」を見たのは高校の時であるから、漫画を読んでから約十年たってからである。映画を見て驚いたのはマンガのストーリーと映画のストーリーがほとんど同じな事。またカメラマンのアービングが映画のアービングとマンガのアービングがそっくりな事。しかしジョー・ブラッドレーは映画ではグレゴリー・ペックちょっと渋すぎだなと感じたり。

 しかし漫画も映画の内容に忠実に書かれており、映画のイメージを損なってはいない、ほとんど差がないのには今更ながらすごいと思う。ストーリーを忠実に漫画にしても映画のイメージを壊さない絵を描くことは難しい、それを完ぺきにやり遂げた水野英子は偉大である。すごい。最近昔の漫画(かなり昔である)を読んで感じるのは子どもの時長い連載と感じていたが実際はそんなに長く連載をしてないこと、ストーリーの中では長い時間だが内容がコンパクトにまとめられている。ダラダラしてないこと。意外だった。子どもの時は時間を長く感じていたのだなと今更ながら感じた。

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ケーキケーキケーキ

2010・3・27

 萩尾望都と言う漫画家を初めて知った作品、なんかの雑誌の付録と言う記憶があった。やはり記憶は正しかった。「なかよし」の付録だった。昭和45年の「なかよし」、絵の印象が深かった、絵にセンスがあり、動きがある、動きはそれまでの女流漫画より格段にあり、線が強くしかししなやかである。絵は矢代まさ子に似てるが力強さでは萩尾望都は群を抜いている。すぐにファンになった。ストーリーも夢があり、可愛くもあり、思春期の女の子向けでいいなと感じた。「ポーの一族」もかなりはまった。

 いまでは女性のパテシエは珍しくはないが1970年の時点では女性がパテシエの修業をするなんて考えられない、だからかなり衝撃的である。今だから言えるが。当時だったらどうせ無理で終わったと思う。しかし洋菓子好きがここまでくれば大した物、とうとう家族を説得する。この時代はまだ1ドル360円、変動相場制ではなく固定相場制の時代。主人公カナの昭和20年代の中頃だと思う。フランスから帰ってきても女性は洋菓子研究家、料理学校で洋菓子を教える位、男と五分で洋菓子を作る場はなかったであろう。

 服もこの時代はミニが全盛であるから、ミニの服を着て中学高校時代を過ごしたおちゃんには懐かしい。余談だが昭和50年くらいからスカートが長くなる。しかしミニが残った理由は動きやすいから、一度ミニを着ると止められない。また萩尾望都の絵になるが特に風景、建物は絵本を見ているような感じで楽しくなる。外国の風景を萩尾望都が描くと絵ハガキのようで日本人が描いた感じがしない独特のセンスと表現である。線が柔らかい。他の女流漫画だと線が固い。風景を表現したら一番ではないか、特に欧米の風景を表現した場合。

 この頃おちゃんも洋菓子作りにハマり、ケーキ、パン、シュークリーム、ミルフィーユ、練りこみ式のパイいろいろ作った。一番ホームメイドでおいしいのはシュークリームとミルフィーユである。多少不格好でも出来たてのミルフィーユ、シューくりーむはおいしい、絶品である。まずパリパリのミルフィーユは食べられない。ならば自分で作った方が良い、しかし面倒なのでシュークリームはかなり作った。実際カナではないが本当においしいミルフィーユとシュークリームはめったに出会う事はない。パリパリのシュークリームはなかなかお目にかからない。だいたいこの時代は料理学校でも製菓を専門に学べるところは少ないと言う記憶がある。料理学校でアントルメ、デザートで習う専門性は高くはなかった気がする。専門学校は料理ばかりで、本当製菓部門はなかったなー。料理学校のカタログを取り寄せたこともあったけど。

 今はカナのように女性パテシエはずいぶんいる、しかしこの時代はいなかったと思う。親も理解してくれるが、この時代はやはりカナの両親のように簡単に理解してはくれなかった、仕事をしても寿退社が一般的だった。

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マンガ・マンガ・マンガ

2010・3・22

 先月から小学校の頃からの漫画にはまる。54歳で感動はしないだろうと思っていたらとんでもない、感動した。小学校の頃と似たような、似てないような不思議な感動である。読後感は希望を持てると言う感覚、しかし時代はちょうど高度成長の頃だから、よほどの偏屈でない限りそれなりに希望を持てた時代である。今になって思い出してみれば。

 今日紹介するのは「レモンとさくらんぼ」(昭和41年)、「はるかなる風と光」(昭和48年)。「レモンとさくらんぼ」連載の頃は小学5年で内容が大人過ぎてあまり読まなかった記憶がある。高校生の学園ものなので共感する部分はない。しかしこの時代は日曜夜8時は青春学園ドラマが全盛だ、「週刊マーガレット」は日本テレビの青春ドラマと連動して小説仕立てで連載していた。今読んでみると高校生にしては大人過ぎるなと感じる、健康的過ぎる、良い子過ぎる、清潔すぎる。理想形過ぎると思う。しかし言うべきことははっきり言う、反抗する時は反抗するが筋が通っている。自分の考えを大人の前にはっきり提示する、今のように何を考えてるか分からないという設定ではない。大人は理解できるところは理解するが、理解出来ない所は出来ないとはっきり言う。多分この事は戦後教育を受けた世代は分かると思う。戦前の教育を受けた親と戦後教育を受けた子供とは価値観が違う。その分対立点は明確。今は親も戦後派だから明確な対立点はない。

 絵を見てるとダイヤル式の電話、着物姿の母親、高校生が車を運転する(高校で自動車免許を取得すれば卒業前でも運転できた、だから高校のとき車で来ていた奴もいた昭和48年の話、当然バイク通学もあった)、小学校の時病気で学校を休んだ子が数年遅れて小学校を入りし、高校では少し年上になる子は昔いた。今の若い人は驚くだろう。しかし西谷祥子の作品はメンタル的に病的は部分を抱えてる子、悩みが大きい子がよく登場する、その原因、分析は的確であり、友人、大人の理解の仕方、接し方も的確である。

 今の高校生とおちゃんが高校生の時の違いはやはりSEXである。妊娠した子もあるがいまほどSEX は日常的ではない特別な物、大概は無縁である。今はSEXは手を出せばできると言う感じ。恋愛は結構あったが大概は高校卒業で終わる。しかし学園生活がメリハリがあり楽しい、確かに漫画の世界で理想形かもしれないが、おちゃんの現実の高校生活も楽しかった。もし戻れるなら高校生に戻りたい、高校の友人は誰もが楽しかったと言う。高校とは楽しいものであると思う。しかし現実今の社会では家の経済状況で高校を止める子も多い。昔なら非行で辞める、時代は変わったものである、学校生活最後の高校、一番楽しい生涯の友ができる高校時代、辞めざるを得ないこれでいいのだろうか。「レモンとさくらんぼ」を読み終わった時ふと感じた。中学は変化が激しいので楽しいとは言えなかったが、高校少し大人になった分余裕が出たせいか楽しめた、悩みもあったが輝いていた(理想、希望を描いた時は、しかし現実を考えた時は悩んだ)。

 「レモンとさくらんぼ」と一緒に乗っている漫画「リンゴの並木道」(昭和40年)はびっくりした。小学校を卒業するまで「週刊マーガレット」を毎週購読したが西谷祥子の作品で唯一最後まで読んだ作品。感動した分内容はしっかり記憶してた。うれしー。内容的にはほかの作品に比べて深刻身がない分楽しめ(おちゃん小学4年)。思春期の少年少女の葛藤や、身分の上下によるいじめ、ありきたりの内容であるが美しい絵でまとめられた良い作品。ここでも乙女心少々理想形であるが、共感できるようにうまく描かれてる。しかし「リンゴの並木道」で初めて西谷祥子の絵を見た時、少女が愛らしく書かれていたそれで虜になった。わたなべまさ子は貴族的過ぎる、水野英子は冷たい、牧美也子は大人過ぎる、しかし西谷祥子は愛らしく等身大の少女として親しみを持てた。

 「はるかなる風と光」(昭和48年)、この作品は連載で読んでいない大人になって文庫で読んだがストーリー、スケールの大きさ、波乱万丈さでは「ベェルサイユの薔薇」を超えると思う。一人の少女がナポレオンと指しで話す、もう漫画と言うより映画的ストーリー「パイレーツオブカリビィアン」の世界である。希望を持て、夢を持てである(バックボーンにあるのは)。他に美内すずえの作品を読んだがスケールの大きさでは群を抜いてる気がする。忘れたが印象として。「はるかなる風と光」は読むとぐんぐんとその世界に引っ張り込まれる、単に歴史漫画と言うより娯楽性の高い作品である。面白いぞ。

 今まで何作品か少女マンガを紹介してきたが、根底にあるのは希望と夢である、昭和30年代後半から50年代前半までは頑張った分それなりの報いがあった。しかし今はどうだろうか、「不幸な国の幸福論」でも絶望、挫折の向こうに希望がある、悩むこと考えることも必要である、ただ嘆いてばかりいても始まらない。河合隼雄も八方塞がりの時意外と道は開けるという。ただ今この時を何とかして乗り越えようと思った時、心底真剣に思い行動した時は開けると言う。高校入試がそうである、ギリギリの子が合格する時、どうしても入りたいと思った時、そして頑張った時合格したりする。考え方としては余裕は大事である(無いよりはあった方が良い、無い方が困る)、しかし真に行動を起こすは精いっぱいやる。悔いがないように。出来ないとか言うけど、もっと広い意味で出来ると言う事を考えた時、出来るものは必ずあると思う。今を乗り切ればなんとかなるとか、その程度良ければ、あまり型にハマらないようにすれば。型にはまろうとするから動けないこともある。

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不幸な国の幸福論

2010・3・14

 著者は精神科医にして、クリスチャンである。去年の11月に脱稿してるから、最新の日本の姿を著者は感じて書いてると思った。今後も今の日本の社会の状態が続くとすれば、数年間は耐えうる本である。答えを求める本ではないが、何か迷った時、どうすればいいのか気づかせてくれる本である。

 日本人は他者目線を意識する、集団で行動する、しかしどこかで個性とか自由とかも欲する。個人主義と集団主義が混在する。しかし基本的には集団主義であり、甘えを許す、しかし価値観が共有されていればであり、価値観が違えば甘えは有さない。他者には厳しい。同じような価値観、同じような行動をいてれば安心である。少なくとも集団では安定できる。異質なものは拒否してしまう。と言いながらも個性とか、多様性とか要求するおかしな国である。集団では集団で要求される物、個人では個人で要求される物がゴチャゴチャしてる。しかし以心伝心で今まで何とかやってきたが、戦後65年もたつと、以心伝心、和をもって何とかは通じなくなった。個人、個性、個別と言う物が幅を利かす社会なった、しかも自分は理解してもらうが、自分は他人を理解しないと言うわがままが多くなった。真の意味での個人とか、個性と言う考え、理解が定着してないままいびつな形で個人、個別、個性と言う考えが定着した。

 精神科医と言う目線で書かれた文章、カウンセラーとして書かれた文章と思想家的な目線で書いた文章と多角的な目で書かれた本であると、おちゃんは感じた。著者は不幸とか、苦しみとか経験してそこから真の意味の自分自身に合った幸福、納得する生き方を探せと言う。ばねになる。他者を意識せず、モデルに拘らず、自分の人生の主人公は自分であることを意識せよ。依存せず自分で考えなさいと。日本の社会は依存社会である。甘えの社会でもある。甘えられるだけの余裕のあった時代は終わった。自分で考え、自分で行動し、他人がなんと言おうと自分が十分幸福ならそれでいいのではないかと。自分の価値観で他人を判断してはいけない。不幸とか苦しいとか言うけれど、そこの中にも自分にとって得る物のがあるかもしれないと。おちゃんは納得できないと言うか、理解出来ないが、苦しい時はやっぱり苦しいし、不幸な時はやっぱり苦しいけど。でもそこで安住してはいけない事は分かる。安住したくないから行動する、行動すればした分得る物はある。希望は持たないが絶望はしないである。

 これからの時代は楽な時代ではない、ただ自分と言う者を考えない人は自分と言う物を余すだろう。自分の足元を見て、身の丈に合った生き方である。経済的な余裕は以前のように十分持てないだろうが、精神的な余裕は十分持たねばならない時代になるだろう。経済的に十分ではない代わりに心に十分な余裕が必要な時代。

 そしてまた出てきました、あるがまま。そうなんですあるがままなんです。あるがままの自分を自分で見詰め、あるがままの他者を認める。しかしあるがままは難しい。あるがままの点に達するまでは、理解不足を嘆き、理解不能を怒り、理解しようと努力してもなお理解出来ないそんな経験と苦しみの向こうにあると思う。

 

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傾聴

2010・3・14

 最近更新が滞りがち、また昨年の今頃のようにバタバタになりそうな気配、、はっきり言ってもうたくさん、介護は介護技術よりも精神的に参ってしまう。とくに認知症になるとキツネとタヌキの化し合いみたいな物で策を練るのが苦労である。しかし策をうまく練らない事にはうまくいかない、ならば馬鹿正直やればよいのかと言えば、お互い精神的に参る、特に老人は本当に参ってしまう。だから多少苦労しても、騙す、誤魔化す、ちょろまかすの策でいく方が良い。

 昨日は弘前ではメンタル系の講演会が3つもあった。教育センターで「あおもりいのちの電話」主催のシン・スゴの講演会、文化センターでボラティア井戸端会議主催「傾聴について」、統合失調症の家族会「わたすげ」の講演会。どれも行きたかったがシン・スゴの講演会に行ってきた。宝塚の女優を思わせる美人である、話はさすがプロ、テーマは多岐に渡ったが、論点からずれることもなく、離れそうになれば引き戻し、話しながら次の展開を考えると言う技にはさすがと感じた。根底には自殺防止と言う事もあるが、あれわれ健常者(シン・スゴに言わせると差別用語になるらしいが)の思い込みが障害者、マイノリティーに対して誤解、偏見を生んでいる。若者は他者目線を意識して、自分らしく生きると言うエネルギーに乏しい。話題は多岐にわたったが、終始一貫していたのは人は一人ではない、誰か自分を理解してくれる人が一人でもいれば良い、それがなければいけない。話を聞いてくれる人、話せる人である。また生きていくために必要なものは、金、人のネットワーク、しかしお金はすぐ無くなる、人のネットワークは無くならない。なるほどである、よほどの不義理をしない限り、人は人の為に何かしてくれるしする物である。文句を言いながらでも。

 昨日の講演でどれも根底には傾聴である。傾聴と言う言葉は最近一般化してきた。しかしよくは理解されていない。カウンセリングでも傾聴が基本である。傾聴の5原則がある、おちゃんは検索をしてみたが微妙に違う。しかし5原則は一応出てくる。だからこれと言って書けない、無責任だが。しかし2級ヘルパーのテキストから。

 傾聴とはただ相手の話を耳で聴くでもなく、相手に何かを口で訊くでもなく、相手の訴えをこころから聴く。相手のペースに合わせ、視線を合わせ、表情や姿勢に気を配り声の調子や話し方に注意を払う。話題を飛躍させないである。後おちゃんの記憶には、相手の人生を批判してはならない、審判的態度をとってはならない、自分の価値観で判断してはならない。

 てな具合で、簡単にできるもんではない。ただひたすら聴くことに徹する。聴きたくない事もある、じっとしてたくない時もある。しかしひたすら相手の話を聴く。カウンセリングと違って、カウンセラー、クライアントと言う関係はない、継続性はないと思う。ただ傾聴に臨む態度はカウンセリングと同じ。カウンセリングは継続性があるので、継続する時間の中でクライアントがその中で気づきができ、解決に向かう。あくまでも理屈だが。カウンセリングはカウンセラーが答えを出す物ではない、クライアントが自己の気づきの中で見つけるものである。答えを出す物はコンサルタントであり、アドバイザーである。

 傾聴は常に相手の立場、相手の目線で感じること。自分目線ではないから難しい、上から物申すの人は十分苦しんでからでないと出来ない、多分説教してしまうだろう。それではいけない。自分の価値観で物事を判断する人はこれからの時代はさようならである。相談員として御用済みである。

 

ジェシカの世界

2010・3・3

 雛祭り、今日友人と三人で雛祭りをしようと思って買って置いたひなあられ無い、犯人はボヘミアンきっと食べるお菓子がなくなったので仕方なく食べたと思う。ニキビ面、親より身長が高くなった少年が喰う、想像するだけで面白いが気持ち悪い。おちゃんは土、日筋肉痛と風邪のためダウン、苦しかった、ボヘミアンも風邪。

 最近は昔の漫画を好んで読んでる。「ジェシカの世界」週刊マーガレット昭和42年連載である。今風にいえば、多重人格と引きこもり、仮面家庭と重いテーマである。多分現代に置き換えると原作よりもずっと重い内容になるし、西谷祥子の描くような美しい絵では表現が足りないかもしれない。

 おちゃんは当時小学6年、「ジェシカの世界」に着いていけなくて毎週号絵ばかり見てマンガは読まなかった。しかし54歳の今やっと着いていける、内容が理解できた。この間43年長い、長過ぎ。昔は小中学生向けの漫画でも子供扱いせず、内容がよければ載せたのである。単に難しいだけではとっくの昔に消えていた、しかし多少難しい内容でも作品が素晴らしいから今でも良い作品として残り、売れ続けている。今は読者の好みに合わせて作品が書かれるから、質の良い漫画は少ない気がする、時代を超えた作品は年々少なくなっていく気がする。

 「ジェシカの世界」おちゃんは理解できなかったが、本屋のねーちゃんも同じ経験だったと言う。西谷祥子の絵は奇麗だけど、内容は理解出来なかったと。昔の漫画のレベルは相当高い、一応小中学生と言いながら、水野英子「白いトロイカ」、「ベルサイユのばら」、今的に言えば内容は高校生以上が対象である。子どもから成人までを対象にした総合雑誌という傾向が強かった。

 ジェシカは4つの世界を持つ、空想好きな本当の自分、冷たい令嬢、我儘な自分、退屈な自分、しかしこのような部分は誰でも持ってる、しかしジェシカの場合自分自身で4つの世界として捉え自由に出入りできるという、まー一つの逃避であろう。しかし最後に4つの世界に自分自身が入る事が出来なくなり、自分自身を安定させる場所がなくなり、発狂する。ならば家庭が安定してれば思うが、これも父親が妻を恐れ家庭に居らず、ジェシカ自身も母親をどこか恐れ、良い子でいる、本当は母を恐れてるがそれを封印、尊敬とい形に変えてる。と言うような内容小学生が理解できるわけないだろう。これに異母兄らしき男性と恋仲になりで、もうぐちゃぐちゃ、しかし周りの登場人物がジェシカに理解を示す。

 なんて内容小学生が理解出来るか、だから絵ばかり見てた。そして43年後に理解した。今昔の漫画界漁りである。

 

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