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2010年2月

ドン・ドラキュラ

2010・2・21

 先週からバイトである。昔した事のアルバイトだが地理的に込みってるので面倒と言えば面倒である。チラシ配りである。すぐ近所であるが同じ弘前とは思えない。あんまり寒いのでまるでシベリア、川の側がこんなに寒いのか、北向きの影ができると正午近くまで氷が解けないのなと改めてびっくりする。また番地割がバラバラなので同じ町名でも飛ぶので時間がかかる。その点屋敷町は番地割が割と整然としてる、玄関は通りに面してる家が多いので楽である。

 てな訳で今週はあまり本は読んでない、しかし本は買いすぎて貯金は底をついた。パソコンの隣で本がドンドン貯まる。本が早く読めと言ってる気がする。漫画の本ばかり読んだ。「ドン・ドラキュラ」面白い、手塚作品は小学校の時から好きではない。しかし「鉄腕アトム」、「マグマ大使」、「悟空大冒険」、「ワンダースリー」は面白いから毎週テレビ本ブログ おすすめ本で見た。

 「ドン・ドラキュラ」は手塚作品にしては本格的なドタバタ漫画。しかし手塚作品の特徴である社会に対する風刺(社会批判、毒といた方が良いか)もてんこ盛りである。現代の東京にどういうわけか由緒正しき、大時代的な正当なドラキュラ伯爵登場、移動は馬車大笑い。しかし娘思いの心優しき父親。またドラキュラ伯爵に恋焦がれる太ったおばさんにも大笑い。銭型警部を彷彿させる村井警部。執事のイゴール(ノートルダムの背虫男を思い起こす)、ユニークな登場人物。

 全編非常に芸の細かい作品で手塚氏自身もかなりの遊び心で書いた物のような気がする。ウルトラマン、月光仮面、スーパーマン、アトム。昭和30年、40年代の少年、少女マンガの黄金時代を経験した世代は思わず笑うかもしれない。心優しき、少しとんまな(現代風に言えばおバカな)ドラキュラを思い切り楽しんでほしい。

 おちゃんが嫌いな作品な「ジャングル大帝」、動物を擬人的に扱い入れ込み過ぎた作品は嫌い、当然デイズニーのこの手の作品は嫌い。(ボヘミアンもこの手の作品は嫌い)、巨大ロボットはやはり横山光輝、少女物も横山光輝「魔法使いサリー」、この系統の作品はやはり横山光輝が強いようだ。しかし後年は横山光輝が歴史物の軸を移したが、手塚は最後までいろいろなジャンルを扱った。

 手塚が死ぬ数年前「オールナイトニッポン」に出た時言った言葉で、人が生まれ変わる事を言った事は忘れられない。それを作品化したのが「火の鳥」。しかし今の漫画はあまりにも暴力、オカルト、グロテスクな内容に偏り過ぎる。ギャグ漫画が少なすぎる。

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学生たちの道

2010・2・8

 先週の金、土と吹雪と雪のため日に3,4回の雪かき。ボヘミアン塾の帰り迎えに来い、しかしチャンがいないので一人で帰る。手が真っ赤、先生がマスクをくれたので口に雪が入らず。生きた心地がしなかった、どれだけの思いで帰ってきたかを述べる、しかし歩けば10分くらいの距離である。あほかと思った。

 ところで西谷祥子の「学生たちの道」を読む。やっと手に入れたと言う感じ。20年ぶりくらいで読み返す。感動である。主人公アルバートの短期間の山あり、谷ありの青春の物語。これでもかと言うくらいいろいろな悲しみを襲う、挫折、裏切り、別れ、再会と人生の悲劇てんこ盛り、しかしアルバートは悩み苦しみ、絶望しながら、しかし最後は大団円。

 おちゃんがはじめて「学生たちの道」を読んだのは小学6年の時、週刊マーガレットに連載していた時、1冊50円、子ども心に感動した。青春とはすごいんだ、青春とは輝く事なんだと西谷祥子の絵の世界の美しさに憧れ、自分もその世界に浸った。しかし現実の青春なんてさほどドラマチックでもないが、それなりに楽しかった。だから今でも高校の友人とはつながってるし、先週も高校の時の友人とその息子の3人でランチ。その息子とマンガとアニメで話が盛り上がった。

 ところで今回も感動したが子供の時と決定的の違うのは、おちゃんがメンタルな世界にどっぷり浸かってるのでその目で読んでしまった事。これが30年以上前のおちゃんであればきれい事で片づけたと思う。確かに20数年前に読んだ時も面白かったが、特別感動はなかった。しかし今は違う。

 何よりも驚いたのは西谷祥子の「学生たちの道」に出てくる登場人物の成育歴からこのような性格、、生き方を選択するであろうと言うストリー展開がある程度的を得てる事である。一面ではきれい事過ぎるかもしれないが、しかし現実的な要素を含んでいるので単にきれいごとの青春物語ではない。主人公アルバートは親から健康的な愛情を受けて、成長したから後半で荒れた生活をしても立ち直り、学問と言う素晴らしさを体験してるので次の人生へとつながる。モーリスにしても学問の面白さ、素晴らしさを改めて体験したので出所後弁護士への道を選ぶ。ジョアンナにしても血が繋がってなくても親子の情愛は成立する、しかしこの場合は代理の親が素晴らしいという条件が付く。里親の場合でも十分慈しめば、本当の親子以上になりえる事が現実にある(いろいろ苦労もあるが結果として)。

 モーリスの父にしても、好きな女性を忘れるために別な女性と結婚した、最初は愛さなかったがしかし愛する。時を重ねればだが。子どもにすればショックだろう。モーリスがぐれたのもこれが原因である、分かる。しかしこれも現実にある。おちゃんが見逃してならないのはネロである。アルバートに決闘を申し込んで誤って自分で自分を殺してしまうが、ジョアンナとは義理の兄弟だある。ジョアンナが誘拐された後、養子として伯爵家の息子になるが元々が残酷な一面がある。その事実を知ってるのがジョアンナの弟アローである。ネロはいつ伯爵家から追い出されるかと言う不安が付きまとった。だから親の前ではいい子を演じていた、そして学生街では憧れの暴君ネロを演じる。ネロの場合は養子に来る前の環境は相当ひどいものであり、自分が養子と言う事を分かってると言う事は、ある程度物心ついてから養子に来たと考えられる。

 また忘れていけないのは苦労人にして善良なヨーゼフである。もしアルバートにヨーゼフという友人がいなければ、これだけの青年に短期間で起きた悲劇を乗り越えたであろうか。ヨーゼフはアルバートに人間とは、人生とは教えてくれた人である。ヨーゼフは言う「絹に包まれたあなたは生きていけない」と、現実の厳しさにアルバートのような坊ちゃんは無理なのである。アルバートは打算的な生活を選ぶがやはり続かない。

 てな具合で読むとかなり深い意味を持つマンガであり、絵やストーリの美しさだけに目を奪われてはならない。登場人物たちは最後大団円を迎えるが、それは素晴らしい友人、そして教育という物の素晴らしさ、面白さを改めて手に入れたからだとおちゃんは思う。きれい事だよなと言われるかもしれないが、教育は最低限きちんと受けるべきであり、友人は多く持つことである。少ないよりは多い方が良い。もし「学生たちの道」の登場人物がめちゃくちゃな環境、教育がなければ、最悪な結果を招いたと感じる。

 話はコロッと変わるが、やはりマンガの黄金時代は昭和30年、40年代である。本屋のねーちゃん(昭和46年生)も言う。少女、少年漫画は。後世に耐えうる漫画ばかりが生まれた時代である。おちゃんは後悔してる。水野英子「白いトロイカ」、青池保子「エロイカより愛をこめて」、長谷川町子「サザエさん」、藤子・F・不二夫「怪物くん」の本を売った事。本屋のねーちゃんにもったいないと言われた。もう本は売らない事に決めた。逆に今は昔の本を買い漁ってる。

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変な給食

2010・2・7

 ほとんど変な組み合わせの休息の写真満載。非常にインパクトがある。ウーンとうなってしなうし、糖質の摂取過剰もさることながら、油脂分が多すぎる。ボヘミアンが小学校の頃の給食の献立を取っておけばいいと思った。毎月3から4位変な組み合わせはあった。

 日本中、かなりの数の親は変な組み合わせの給食に違和感を感じてる思う。変な給食にならざるを得ないと言うのは原因として牛乳がある。洋風、中華風の献立から行くと牛乳は邪魔になる、洋風、中華風はカロリーは多くなるに加えて(当然満腹感は多い)、牛乳を飲むことでもっと満腹、食べ過ぎの状態になる。低学年、食の細い子は苦痛ではないだろうか。

 子どもの給食は本来和食が一番いいと思う。当然牛乳との相性も悪くはない。しかし和食の場合カロリーはあまり多くならない、手間もかかるので給食現場ではあまり歓迎されないだろう。写真を見た限り、必須アイテムは牛乳、数合わせ、手抜きと言う印象を受けた。ここぞと言う時、カロリーの数合わせに菓子パン、おやつがつくような気がする。フルーツポンチは良くつくが本当は子供は嫌いである、戻ってくる食かんを見るとフルーツポンチの残りが一番多い。生の果物を普通に食べられる現在、缶詰がご馳走ではなくなった現在、缶詰を使ったフルーツポンチは意味がないような気がする。出すなら桃、パインとフルーツポンチにしないでそのままのほうが良い。

 またカロリーも厳密に守る必要もない。子供は帰ってから夕食までおやつを食べるが結構カロリーは高い。つまり3度の食事以外で結構糖質、油脂類をとってるので、給食でカロリーに神経質になる必要はない。おちゃんが栄養士の勉強をしたころは糖質、たんぱく質、油脂類の数字はとにかくクリアする方がよかった。もう30年以上も昔だが、しかしそのころから子供の油脂類、糖質の過剰摂取は問題になっていた。今はもっと問題である、共稼ぎが当たり前だから、コンビニ、ファストフードと子どもは行く。当然、油脂類、糖質の摂取は多くなっている。だからビタミン、ミネラルの数字を気にした方が良い。カロリーはどうでもいい気がする。

 献立は「どこの国の食事?」と言う献立は極力避ける、洋風、中華なら統一感を持たせる(その時は牛乳は避ける)。しかし基本は和食。センター給食よりは学校単位の給食が良い。なんて事を頭に入れて読んでほしい、どれだけ給食が変か理解出来ます。ぱっと見た瞬間は「良いじゃない」と思うけど、よく見るとやっぱり変なんです。どこか。

 最後におちゃんの小学校の頃の給食、昭和43年の3月まで弘前の小学校の給食は学校単位。必須アイテムはコッペパン、食パン(間違っても菓子パンは出ない)、脱脂粉乳(まずい本当にまずい、本来は牛の飼料に使う)、果物は必ず1個で出る(ミカン、リンゴ)。豚汁、カレーシチュー、焼きそば、コールスロー、マカロニサラダ。ときどきうどん。クジラの竜田揚げ、コロッケ。給食室から匂いがするから給食が楽しみだし、親しみがあった。米飯給食は食べたかったがなかった。しかしコッペパンと食パンだけだったからよかったのかもしれない。

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東京の下層社会

2010・2・1

 寒い、寒い今年の冬のアップダウンは激しい。こんな季節ホームレス、ネットカフェで寝泊まりしてる人はどんな気持ちでいるのだろうと思いながら読んだ。これは決して昔の話と思わず、現代の話として読んでほしい。

 戦前の東京における下層社会の様子を各種文献からまとめた形で本にしたもの。一読して思った事は福祉の全くない貧しい昔から、多少良くなった現代もあまり変わってないこと。また昔から下層社会の連鎖がある事、だから連鎖と言う事を念頭に入れて読むと連鎖は今に始まった事ではない。昔からある。似た事があるもんだと感じる。

 連鎖、連鎖、格差、格差と騒ぐから新しいものに聞こえるが、昔からあり誰でも分かってる事である。何となく分かってるが統計とか、詳しいデータがないだけで肌で感じてた、見ようとしなかっただけである。世界各地の悲惨なスラムの生活が日本にあり、「絶対貧困」と同じ生活があった事、政治家はスラムを一掃しようとしてる事が日本でもあり、それはただ分散させただけで時間がたてばまた新しいスラムができる、国が違っても、時代が変わっても社会のシステム、人として生きていく福祉を考えない限り、見ないふり、臭い物には蓋と言う場当たり的な政策ではなくなる事はない。

 しかし仕事をする、仕事を与えると言う立場でこれだけひどい事が出来たもんだと驚いたし、よく耐えるもんだと驚く。娘を女郎に売る事仕方がない、美徳だと思わされ(人身売買禁止の法律があるのに売られる)、法律よりも前時代的規範が優先されて、無知、無学とい事に付け込んで、相手の弱みに付け込んでひどい事をするもんだ(教育がない恐ろしさを実感した)。人間以下の立場に落ちていくのではない、自分で進んで落ちていかない、強者が弱者を故意的に落としていく、今も昔も同じである。昔の女衒、口入屋が今のインチキ人材派遣会社である。

 女工、女郎の話をするときは良い話しかしない、今でいえば住込み派遣募集でチラシに良い事しか載せないことと同じ、女郎の前借は闇金の多重債務みたいにエンドレスである。いつの時代も欲深な人間は同じことを考える。若干永井荷風の作品も触れているが、永井荷風独自の美学から女郎、女給の哀れさを語ってるだけで、女を軽んじる風のある永井荷風の高め目線だから話し半分で読むことだ。荷風は自分好みには哀れを感じても、対象外は蛇蝎のごとく嫌う。特に焼き餅焼の女、学問のある女は大嫌い。要は自分好みの美人でコントロールしやすいのが好き、女に言わせると男に都合の良い馬鹿女である。

 戦前の下層社会の様々なレポートを酷使して書かれたこの本は読みごたえがある。しかしこれだけ貴重なレポートも戦前はあまりセンセーショナルにならず興味の対象の読み物でしかなかったらしい。因果応報、親の因果が子に報い、自分は所詮こんな物と自暴自棄になっていく、自分否定とい考え方も強く感じた(誰かの性でこうなった)。高め目線で見る方も、偽善で慈善を説き(自己満足的慈善)、こぼれてしまえば自己責任(ばちあたりとも言う)挙句が勝手にしろと丸投げ。国は富国強兵で走り抜け、弱者切り捨て、いくらかの篤志家、救世軍(しかし邪魔が入る)で支えられたのが戦前である。戦後は経済、経済で走り抜け、弱者切り捨て。

 今また貧困が見えてきたし、社会全体で見ようという気運がある。今ここで真に人が一人でも人らしく生きていける社会にしないと同じ事の繰り返し。働かざる者食うべからずと言うが、働けないから喰えない、だから仕事をくれ、どこが悪い。そんなこと言う人は仕事はまずくれない、探しなさいと言う。施しはやめなさい、我儘、仕事をしなくなる、盗人に追い銭である。確かに一理あるがそんな人は少ない。大方は真面目である、少ない人を対象にして大多数の困窮した人を切り捨てる考え方は疑問である。

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