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2010年1月

こころと遺伝子

2010・1・21

 不思議な本である。哲学書のような、教育書のような、宗教書のような、のようなものである。おちゃんは最初遺伝子が心に影響する事を学問的に書かれた本と思った。読みやすい科学的な説明も非常に分かりやすい文章で書いてある。若手の学者の書いた文章は分かりづらいが、なぜある年代から上の方の書く文章はうまいのだろうか?いつもそう感じつつ本を読むが、本当に分かりやすい文章である。

 著者は遺伝子学の世界的な学者であり、著者は天理市に生まれ、父親は天理学園の教師、天理教の教えの中で育ったと言う。著者は科学者がスピリチュアルな事を考える事を珍しがられると言う。そうだろうか。アポロ計画で月面着陸に成功した宇宙飛行士の中から宣教師が出たり、アームストロング船長が人嫌いになったり。何か科学の頂点を極めてしまうと万物に対してひれ伏す、畏敬の念、限界の向こうは人が手を出す事の出来ない何か大きな力を感じるのではないかと。確かに科学の歴史は限界、不思議な奇跡のようなものに挑戦してきたが(神への挑戦でもあるが)、良くなった部分もあるが本当にそうだろうか?と著者は考える。おちゃん的推理であるが、科学者の中で頂点を極めた人のなかでこれ以上手を出してはいけない部分を知った時、スピリチュアルな思想に行くような気がする。

 湯川秀樹も晩年は哲学者のような風貌であり(仏教の本も読んでいた)、河合隼雄も宗教のような感覚がある。池見酉次郎にしても、精神世界を研究すれば人は自然の中で生かされている、哲学的、宗教的な感覚になるらしい(もっと精神世界は理屈で割り切れない不思議さがある、分かると言えば感覚的に分かると言う事で、言葉で説明できないものがある)。枕が長くなった。

 成人のすべては約60兆の細胞、32億の遺伝情報を持ち、一生のうちで5ないし10%位しか使わないと言う。だから誰にでも無限の可能性がある。特に子どもたちはもっと、もっと可能性がある。こうなりたい、ああしたいとい思いが遺伝子の中から可能性を引っ張り出すエネルギーと言う。遺伝子にスイッチが入ると著者は言う。遺伝子にスイッチがONかOFFは環境にあると言う。環境とは自分の思いと、自分以外の外部の物すべてである。その新しい考え方をエピジェネティクスと言う。冒険遺伝子のスイッチが入った例として三浦雄一郎をあげている。介護の現場でも人は死ぬまで進化する、信じられぬ事が起きる(例えば脱走である、足腰が弱いご老人がどういうわけか逃げだす、どう動いたのかトンと訳が分からないが)。

 交感神経と副交感神経のバランス(陰と陽みたいな)、河合隼雄で言えば真ん中で考える、日本食の良さ(伝統食を見直すみたいな)、自然治癒力(ほとんど安保徹の世界じゃ)。おちゃんの頭がグチャグチャになってきた。分かってるが文章化できないと言う焦り。

 結論、バランス感覚を大事に、伝統食を見直す、自然治癒力を高める、真ん中で考える。つまりもともとのジャパニーズに根ざした生活、考えをしなさい。「甘えの構造」ではないがあいまいな感覚が日本人の中ある(白黒はっきりさせない)、甘えが日本人を支えてきた(甘えてはいけないとい欧米の考え方)、近代になって欧米型の二元論的な考え方が良しとする方向になり、真ん中で考えてはいけない(あいまいは良しとしない)風潮になった。その分悩みが多くなった。大概悩んでる人はバランスを欠いてる(しかし本人はバランスを欠いてる感覚がない)。温故知新である。今年のジェロのコンサートのテーマである。だからジェロは偉い。

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家系は語る

2010・1・15

 良い本なのか、そこそこの本なのかよく分からない。ただ非常に読みやすい。家系調査から浮かび上がった傾向を書いてある。家族の習慣性と言う項は非常に興味深い。家族関係のくせが良いものも悪いものも受け継がれると言う。まー連鎖と言うことか。ブライダルのカウンセラーが言っていたが離婚、再婚を繰り返す人はやはり親族の中でもそのような人がいると言う。「かく言う私も離婚と再婚の経験者です、兄弟も離婚経験がいるんです」と話してた記憶がある。「不思議なんですよね、良く分かりませんけど」

 虐待も連鎖である。この本を読んでみて自分の家族、家が嫌になって飛び出したのに、気が付いたら自分が否定した家族と同様の事をしていたという事実。自分が親と同じようになりたくないと思っても気が付いたら同じ事をしてた、虐待を受けたものが虐待をするという連鎖である。一族と同じようになりたくないと否定しても、いつの間にか一族の癖、構えを継承していた。連鎖である。

 著者は神仏具店経営者である。「家系は繰り返す」は決して偶然でもなければ、神話でもない家系譜研究が進む中で明らかになった統計的事実だと言う、おちゃんは連鎖として考える。唯家系譜を作ることで一族がまとまったとか、運が開けたとかも書いてある。おちゃんはウーンと考えたそんなもんかいなと。

 確かに家系譜を作ることによってまとまりが欠けた一族、家族をまとめる綱にはなると思う。しかし家系譜を作れば簡単に運が開けると思ったら大きな間違いのようだ。仏作って魂入れずならやらない方が良い。祖先に思いをはせ、一族が会して和気あいあいとなれば運も開けるだろう。しかしそうなるかどうかも分からない、ならばどうするんだという声が聞こえる。作ったものが作って良かった、祖先に思いをはせ、今まで良からぬと思っていた祖先を許す事かと思う。

 一族に新風を送るのは嫁であると言う。家系的の見た母、嫁の役割は(本文抜粋)

・嫁ぎ先の家系の課題に気付く

・家系の課題を克服し、懸け橋となる自覚を持つ

・次の世代に良き習慣をつなげる

・子どもたちをまとめ、父親と父方の先祖を慕う心と知恵を養う

 難しい。出来るか?出来ません。出来る方やってください。確かにどこでもいい嫁が欲しいのは事実。しかし完全無欠の人間はいない。嫁だ婿だと分類する前に、相手の立場で相手を理解する、自分の感情のままに走らない理性的な態度で接する。しかし水臭い気もする。あるがままを認めるしかない。しかし下手にあるがままを認めたら暴走しかねない。だから家の中ゴタゴタ耐えないのである。

 結論。揉めても良い。家庭は潰すな、潰さない。家族同士で潰しあいはやめろ。旦那は立られないものは立てるな。息苦しい家庭になるだけ。妻も夫も仕切り人になっても、独裁者になるな。妻、夫の領域がある。それを認めよう、領土侵犯はするな。夫婦愛和しできなくて良い、ただお互いの立場は理解しろ、妻は妻、夫は夫の役割がある。依存はするな。おちゃんにとって一番苦手な内容の本であった。

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親でござる

2010・1・10

 今日弘前から引っ越す家族の最後の送別会。去年の暮れからやって子供だけとか何回やったか。PTAの役員から親しくなったお母さん方。おちゃんもPTAの役員になる気はなかったが、やれるのであればやった方が良い。相談相手、味方、学校、子供の情報とメリットもあるし、親が親しくなれば安心して子供を家に呼んだり、注意できる。子どもの後ろには親がいる、その親を知ってるか知らないかで全然違う。どこの家の子とか心配する必要もない。

 おちゃんは鬼婆作戦である。「鬼婆ですが、それでよければ遊びに来てください」と言えば、たいていのお母さんは「私も鬼婆ですので」と言うからそこで気持ちが和んで、話がうまく行く時が多い。

 ところでどのお母さんも子供の事で話したくてうずうずしてる。学校の先生をしてるお母さんも普通のお母さんと同じくらい、自分の子供で悩んでる。家に帰ればただのおっかーである。ただ仕事の都合上話せないだけで本音話したいのである。自由に話せる場があればバンバン話す。また自分の家の子供の悩みはどの家にもある、お母さん方の話せる場を作ればいいのである。そこで悩みを解消する、またいろんなお母さんの話を聞いて参考にすればいいし、自分の子の良い面を他のお母さんが言ってくれるかも、他の子供を理解し、自分の子供を新たに理解できるかもしれない。

 おちゃんは今新しい話の会を立ち上げようかと思う。人は話せる場が欲しいのである。何の遠慮もなく、安心して話せる場が欲しいのである。親はどうしても他の子供と比べるし、うるさいし、細かいし、こんな親の態度は良くないと言われてもやってしまうのが親である。子どもが心配なのである。分かっちゃいるけどやってしまう。それが親なんだから、無理していい親を演じる必要はない気がする。

カウンセリングを語る

2010・1・5

 大晦日からのドカ雪、毎日2回か、3回の雪片づけ、もうへロヘロ。年始からのドカ雪は近年珍しい、いくら寒の入り前とは言えこれからドウナルンジャイ。ボヘミアンはとうとうおちゃんより背が高くなり、足も26.5一番でかい。ときどき家の中で踊るとボヘミアンに「あんた、頭飛んだの?」と言われるが、おちゃんは多少変わっている。自分で多少変わってるという意識がある事は、変わってないと言う事。もし本当に変わっていれば、変わった事に気がつかない。

 ボヘミアンも変わってる、確かに変わった親子であるから生き辛い事はある。ボヘミアンも自分が少々変わってる事は気がついてるらしい。一般論としての意見を聞く気がない、もっと本質、本音の部分を大切にする、自分に正直に生きる事を大事にするのである。しかしどこまでも自分を通すのは馬鹿である。そんな時は良い意味で、誤魔化す、騙す、いい加減にする、適当にするである。早い話すが何を考えてるか分からない親子である。しかしこれは人生長い目で見れば賢い生き方である。自分を自分らしく生きることである。

 ところが世の中良いか悪いかの二極論で生きる馬鹿が多すぎる。誤魔化す、騙す、いい加減、適当を許さない。これを悪い意味でとる。10代の若い者なら分かるがいい年の大人も二極論である。中間で考える事がない。河合隼雄は真ん中で考えよと「カウンセリングを語る」で書いてある。全くその通りである。おちゃんは前からボヘミアンに中間で考えろ、答えは二つ用意しろと教えてある。人は自分の期待する答えを求めたがるがそうはいかない。相手に答えを求めた時AかBどちら選ぶ、しかし答えを求めた方はAかBどちらに転んでもいいように考えていた方が楽である。期待しすぎないことが大事である。

 この本は現在カウンセリングを勉強中の方、カウンセラーを始めた方にとてもお勧めの本である。傾聴、受容、共感、自己一致全部できるか、出来なくはないがかなり無理である。無理をしようとするから苦しむ、だから限界を知りなさいと河合隼雄は説く。己の限界の中でやっていく、もし限界と分かれば、駄目だなと思えば、別な人を紹介しても良い。しかしいい加減ではいけない、腹を据え、クライアントと対峙して、真剣勝負でやれと。それでだめなら断われと。しかし不思議なもので真剣に真っ向勝負に出た時、うまい具合に困難な物事がうまく運ぶと言う。多分本当に真剣にクライアントに対峙した時、その真剣さがクライアントにも伝わり物事が運ぶのではと思う。

 親が子を叱るとき聞く時と聞かない時がある。聞く時は親が真剣であるからだと思う。聞かない時は親がどこかで良い加減か、親中心ではないかと思う。年がら年中真剣勝負では体が持たない、だからここぞと言う時は真剣勝負で、後は良い加減で良いような気がする。カウンセラーはクライアントによって育てられる、限界と感じながらクラインとと一緒に歩く。そして幸いに限界を乗り越えた時、カウンセラーは一歩成長と言う。しかしカウンセラーとはしんどい、苦しい仕事である、だからこそやりがいもあると言う。

 カウンセラーには次々と壁がある、おちゃんはカウンセラーではないがあんな壁、こんな壁と想定できる壁がある。その壁にぶつかったときの考え方、見方も書いてある。オーなるほど、フンフンである。カウンセラーはクライアントのしんどい話を聞くからしんどくなる。そのしんどくなったカウンセラーを助けるのはスーパーバイザーである。しかし河合隼雄はカウンセラーの数は増えても、経験豊富なスーパーバイザー、カウンセラーは少ないと嘆く。1985年の段階で話してるが、現在も状況は同じ気がする。あるキャリアカウンセラーが「私疲れるんです、話を聞いてると。どうすればいいですか?」

 おちゃんはハロワ、能力開発センターと仕事を得るための相談に言ったのに、相談員から分かってくれない、理解してもらえない、ピント外れの人が来ると言う話を聞かされた経験がある。おちゃんは何しに行ったんだと思う時があった。結論今の日本中の相談員介護職、カウンセラーは疲れてる。人を相手にする仕事をする人は疲れてます。人と接する仕事をする人にも勧めます。

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