親とはなにか
2009・9・23
初版昭和47年12月、最近古い本を読み返す。この本は2009年の中公新書の目録にはない。古本屋で探すか、図書館、後はネットの古本屋である。おちゃんがいつも行く古本屋は、岩波新書、岩波文庫、中公新書などを(とくに新書を意識して)置いている。
この本を読むのは2度目、最初読んだ時は里親とは大変だ、親権を盾に実親が返してと言われると、里親は里子を手放さざるを得ない。里親に馴染んでよくなったのに、実親のところに戻るとまた余されたり、実親がまた育てられないと言って里親の戻される、いったりきたりする子供の不安定さ、実親の理不尽さに腹が立った。
しかし今回読み返してみると、おちゃんは貧困、教育、貧困家庭の負の連鎖という感覚で読んだ。昭和47年と言うと、モノ余り現象、日本全国都会と地方の差はない、マイカーは弘前あたりはまだ普及はしてないが自営業ならたいてい持っていた。家電製品の3種の神器はあって当たり前、電子レンジでも買うか、ラジカセでも買うか、テレビの買い替えはカラーテレビにするか、若者文化花盛り、校則自体も今より緩いかった。未来に対して、現代のように暗い影はなかった。将来はどうにかなるという楽観主義、不安はなかった。真面目にこつこつ生きてれば人生どうにかなるさと言う時代だった。しかし1年後の12月に第1次オイルショックが起こるとは、誰も考えなかった。就職より経済がどうなるのだろうという不安はあった。そんな時代に格差だ、貧困だ、家庭崩壊、貧困の連鎖だと書かれたこの本は大概の読者は里親って大変だくらいしか感じなかったと思う。親という仕事は困難だという意識しかないだろう。こんな親には成るまいが大概だろう。著者は見えてこない底辺の生活者としてとらえているが、今の時代では見ようとしなかっただけで、実は見えているという解釈である。
国民の70~80%が中流意識だから書いてある事例がどこか他人事だったろう、おちゃんも最初に読んだ時はそんな感じ。1995年あたりに読んでるから、今ほど経済状況はひどくない。しかし今はいつ家だってこうなるか分からない、貧困というものが見えてきた今、自分の回りにもいる、非常に身近な感覚で読んだ。そしておちゃんが感じたことはこの国の福祉は昭和47年と余り変わってないなと。弱者の目線ではない、高いところ目線である。ただ国民感覚からいえば、今の時代、支援、ボランティア、NPOとか福祉の芽が育っていること。国は変わっていなくとも国民は変化している。
親になるのは簡単SEXすればいい、しかし親になり子を育てるとは苦しいが楽しくもある。理由なく子供はかわいい、憎たらしい時もある。しかし現実に自分で子供を育てることが苦痛、困難な人もある。生物学的親が親になるのは良いが、親としての資質がなければ子供にとっては不幸である。その不幸は生涯ついて回るかもしれない、付かないかもしれない。おちゃん的親というものは、子供に対して最低限の人間性をつけて社会に送り出すこと。そこそこ社会人として生活できるようにすること。
格差、格差と言うけれど昔からある。あって当たり前、今の時代の問題ではない。だからちょっと昔を知りたい人読んでほしい。ただ今と昔の違いは、昔は自業自得、自己責任、今はそれもあるかも知んないけど、社会のせいでもあるという事。
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